見出し画像

ワルシャワ(その一)<旅日記 第36回 Oct.1995>

もともとの旅の構想

 本来、この旅は、こんな構想から始まった。

 中国から天山山脈越えで中央アジア、カザフスタンやロシアを経てポーランドのワルシャワ、ドイツのベルリンに至るシルクロード鉄道でユーラシアをわたろう、などと。

 しかし、わたしは海外に対して臆病なところがある。

 まだ見ぬヨーロッパを見る前にさまざまな困難や危険と直面するのは避けたいという気持ちが起きた。

 そこでアジアから空路ヨーロッパに入ったのだった。

ついに、ここまで来たか・・・。

「ついに、ここまで来たか・・・・」。

 実際にワルシャワ入りすることは、当初の構想と関わるルートであるので、感慨深いものがあった。

 ワルシャワにはさまざまな先入観があった。社会主義体制崩壊前の混乱で食糧品などの物資の欠乏、反政府デモ、そして、「ワルシャワ労働歌」などの革命歌・・・。はたして。ワルシャワ中央駅に入る鉄道は、暗い地下トンネルを通っていく。やっぱり暗いなあ。駅構内では、ルーマニア難民の母子が物乞いをしている。

静かな灰色の街

 灰色の空に覆われた町は静かだ。

画像4

 駅前にでーんと構えているのは、文化科学宮殿。これは、ソビエト時代を象徴する、スターリンから寄贈された権威の象徴。ロシア人嫌いの多いポーランド人にはすこぶる評判が悪い。

 もう一つは、市場開放の象徴のような超高層のマリオットホテル。

 マリオットには「入れない」とポーランドの友人

ワルシャワで知り合って短いあいだだが友人として世話になったポーランドの若者にお礼をしようとこのホテルのバーに誘おうとしたら、建物の入り口で、「わたしたちはここに入れないんだ」と言っていた。

 ポーランドの庶民の所得はまだ随分と低かった。もちろん、わたしがおごるつもりだったが、お金だけではない理由がありそうだった。

画像2

 ワルシャワ到着の夜、クラカフで出会い、列車で一緒だったイギリス人ジョナサンとマリオットのバーに行くことになっていた。

 日本と比較をすればポーランドのマリオットのバーは高くなかった。メニューにバーボン・ウイスキーの表示があるのを見ると、値段もそこそこ、久しぶりに飲みたくてストレートを注文した。しかし、グラスを見て衝撃を受けた。入っている液体は、6~7ミリのような量だった。一口サイズだ。高級な嗜好品だったのだ。

 ポーランドの一般的な人々は入れない場所で、ポーランドのために西側から派遣されてきているイギリスの若手研究者と一緒にいると、自分もなんだか“特権階級”の側にいるような錯覚に陥ってしまう。

イギリスのジョナサンに誘われ、「諸聖人の日」のお墓めぐり


画像4

画像4


ジョナサンも、わたしのワルシャワ滞在中、いろいろと親切をしてくれた。11月1日はカトリックの「諸聖人の日」という祝日で、人々はろうそくを持って祖先のお墓参りをする習慣があるという。ジョナサンとその恋人と、わたしの3人で、この日にポーランドの有名人のお墓巡りに出掛けた。お墓やその周辺は赤や緑の花やキャンドルでクリスマスのようだ。普通ではない観光だった。町中に、年内に行われる大統領選の候補者のポスターや看板も目立つ。  

 社会主義体制のもとで民主化運動のリーダーとして活躍して初代大統領となったワレサ氏の再選を 目指す選挙が迫っていた。政治学が専門の研究者であるジョナサンは、ワレサ氏は保守派(旧・ソ連体制寄り)候補に敗れるだろうと話していた。

 実際その通りとなった。

画像5

 しかし、ジョナサンさんたちと一緒に地下鉄に乗っていると、子どもたちの目は明るい好奇心に満ちてわたしたちのほうを見ている。異なる文化に触れたい、その手段として英語への関心がとても高いようだった。
                 (1995年10月30日)

        「てらこや新聞」119号 2015年 03月 30日




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?