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<旅日記⑤ Sep.1995>バタワース~ペナン島(マレーシア)

マレーシア西海岸のバタワースという、マレー鉄道の駅から、対岸のペナン島唯一のダウンタウン、ジョージタウンまでは船賃40マレーシア・セント(約20円)だ。バックパッカーの旅を始めて1週間。だんだんムダな出費は抑えるようになってきた。船から下り、木の桟橋を歩くうち、長髪に髭の白人とすれ違った。皮膚は熱帯アジアに赤く焼け、らんらんと輝いた目に、ゆったり幅のシャツに、紐で腰を縛ったゆるパン。足元は裸足。“日本直輸入”のわたしなんぞ、まだまだ、だ。

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安宿に泊まりながらバックパック(リュック)を担いで長旅を続けるバックパッカー。この旅のスタイルは、アジアやヨーロッパを長期にわたって歩き続ける若者たちの旅のかたちとして定着している。わたしのように半年という旅の期間をきっちりと決めて出掛けてくるのはむしろ短いほうで、2年、3年、長ければ5年、7年と続けている人とも出会った。が、こうなると、旅が日常となり、人生の目標などどこかに消えて飛んでいき、もう元の世界には戻れなくなってしまうキケンと隣り合わせだ。

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当時、日本人の中にも大学生を中心にバックパッカーは増えつつあった。しかし、大学生のそれは就職までの卒業旅行のようなもので、1か月、2か月という旅が主だったようだ。帰国日までには使えなくなりそうなバスの片道券を60円ぐらいでわたしに強引に売りつけてきた一橋大生など、けっこうちゃっかりしていた。

けれど、「ちょっとこれはーー」と思う30代の日本人男性とも出会った。

かれは、帰国してはアジア各国に旅に出るというパターンを繰り返していた。なんでそんなムダをと尋ねると、失業給付を受けるためにいったん帰国し、そのお金を受け取ったらそのお金で旅を続けているというのだ。大学生でもアルバイトで稼いだお金でケチけち旅を続けている。それと比べ、こんな男は国家に対する詐欺師のような「許せん奴」だ。

そんな中年もいるにはいるが、フォークのギター一本、街角で演奏してお金を稼ぎながら4年、5年、ヨーロッパを旅し続けているという、元読売新聞記者で和歌山県に配属されていたという、一応はかつての “同僚”ということになる男と、バルセロナの民宿(ゲストハウス)でばったりと会った。かれも、当時のわたしと同じく30代半ばだった。

わたしは、こう見えて人生に対して臆病で石橋を叩く性格があったから、半年できっちり、元の社会に戻るべく、松阪の地元新聞社へのUターン再就職のめどをしっかり立てたうえでの夢の実現だった。

が、旅の魔力からの誘惑は付きまとう。旅の中盤、旅のお金の残高は厳しくなりいっそうの節約の必要から、急速に寒くなっていく11月初めのポーランドでありながら、ワルシャワの公園のベンチで、スーパーで買ってきたパンとチーズを食べた。公園の向こうの端のベンチにはホームレスがいた。かれにはこの公園が生活の場で、わたしには帰るべき国に仕事は約束されていた。けれど、人生のこの一瞬において、この寒い公園で同じ時を過ごしている中に、わたしとかれの間にいかなる違いがあるのだろう。ぶるっと、人生の危うさを感じた。わたしの中にも、旅の日常化現象が忍び寄ってきつつあったのかもしれない。

ペナンでわたしのほうに歩いてきた裸足の白人は、旅の“罠”にはまってはいけないよという戒めのために現れた旅の神様だったのかもしれない。

(1995年9月7日)

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