映画感想「叫びとささやき」三女・マリーアの変化に見入る
スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン(1918~2007)による1972年の映画。
北欧の森のなかの赤を基調にした屋敷に、上流階級の三姉妹と一人の侍女が暮らしている。病に伏せる二女・アングネスを三人で看病し、看取り、葬儀を行うなかで、四人の孤独や欲求不満、お互いに対する秘めた感情が露出する。
「アンチ・オイディプス」読書会でレジュメを担当することになり、苦心のレジュメを片手に迷宮のレビューを終えると、M氏から映画会をしないかと誘われた。先週もM氏とゴダールの「さらば、愛の言葉よ」を観た僕は二つ返事で了承し、勧められるまま他の読書会の面々とともにこの映画を鑑賞した。
ーー以下ネタバレ有ーー
あらすじ
序盤の回想では三女のマリーアと、アングネスの主治医との間の不倫関係が描かれる。夫が不在で、主治医が屋敷に泊まるある晩、マリーアは主治医を誘惑するが、主治医は「君は以前よりもずっと美しい」と前置きしたうえでマリーアの老いや焦りを次々に指摘する(ひどすぎないか???)。
次の日のマリーアの様子から夫は主治医との不倫関係を察し、腹を刺して自殺しようとするが未遂に終わる。痛みに悶えながら助けを求める夫にマリーアはドン引きである。
若さや美にこだわって欲望のままに男性を誘惑し、その結果生まれる醜さや老いを直視できない永遠少女的(?)な人物像が描かれており、僕は三浦綾子の『氷点』の夏枝を思い出した。
三人はアングネスを協力して世話し、なかでも侍女・アンナの看病は献身的だ。しかしアングネスの病状は日々悪化し、ついには「誰か助けてよ!」と絶叫し死亡してしまう。この絶叫と死が、表面的には仲睦まじい姉妹の関係の外殻にひびを入れ、内に秘められた感情を露出させる幕開けの音でもある。
長女カーリンの回想シーンでは、多忙な外交官の夫との冷えた関係が描かれる。人前でのカーリンの神経は張りつめていて神経質だ。カーリンは人に見つめられることを嫌い、アンナの視線にぶち切れたのちに我に返って猫なで声で謝罪する。あまりの豹変ぶりにアンナもたじたじである。窮屈なドレスを脱いでネグリジェに着替えたカーリンは、夕食時に粗相で割ってしまったワイングラスの欠片を局部に挿入して恍惚の笑みを漏らす。
カーリンとマリーアの回想シーンではともに流血の描写がある。この血が屋敷の壁やカーリンの唇の赤、シャツやネグリジェの白に映えて凄まじい映像になっている。
アングネスの遺産や屋敷の相続分配についてカーリンとマリーアが話をする。マリーアはカーリンと心をひらいて話し合い、友情を築きたいと詰め寄るが、カーリンはマリーアに優しくされ、身体に触れられることを恐れる。
カーリンはマリーアが視線を落として考え事をする様子を指摘し、マリーアの優しさは嘘だ、私はマリーアが憎い、とまくし立てる。部屋を出たカーリンはまたもすぐさま後悔してひとり絶叫する。
そしてカーリンはマリーアに追いすがり、二人は互いの顔に手を当てながら一晩中心を開いて話し合う。二人の間のわだかまりが消え、本当の関係がはじまるのかと思われるが、二人の会話の映像にあわせて不穏なヴァイオリンが鳴り響く様子は、この関係がこのままでは終わらない事を明らかに予感させる。
ここまでアングネスとカーリンの絶叫が印象的に描写されているが、マリーアの回想シーンは終わったのにマリーアは叫んでいないじゃないか、と思ったところに大きな出来事が訪れる。アングネスの死体が喋りだしたのだ。
アングネスは残された三人が心配で、死んだあとも天国に行くことができない。アングネスはまずカーリンを呼ぶが、カーリンはアングネスを「愛していない」と真っ向から拒絶して部屋を去る。次に呼ばれたマリーアは「妹だもの」と手を取り声を掛けるが、抱き寄せられキスをされそうになると思わず絶叫しながら部屋を飛び出してしまう。最後にアンナがアングネスを、生前していたように素肌で抱き寄せ、二人で最後の時間を過ごす。
アンナが死体となったアングネスを拒絶しない理由は、生前のアングネスを慕っていたこともあるが、アンナが自分の娘を亡くしていることも関係している。アングネスの死体が蘇った日も、アンナはアングネスの泣き声を赤ん坊の声だと思い、亡くなった自分の子どもと重ねながら死体安置室に向かうのである。
かくして葬儀が終わり、屋敷を売り払うと同時にアンナは暇を出される。「約束だから仕方なく」と言ってアングネスの形見をやろうとする遺族にアンナは反抗し、「何もいらない」と答える。
カーリンはマリーアを呼び止め、心を開いて話し合った夜のことを忘れないで、と言うが、マリーアの目をそらして考え事をする姿が再び気になってしまう。マリーアはもはや二人の関係が仮初のものであることを隠そうとせず、カーリンを試して唇を近づける。思わずよける姉にマリーアは「ほらね」と言わんばかりの笑みを浮かべ、「また十二夜で」とお付き合いの言葉をかけて去っていく。
アンナはアングネスの日記を読んでいる。日記には四人の美しい思い出が書かれている。「もう何もいらない、私は至福の瞬間を味わったのだから」
マリーアの変化
かつてのマリーアは、自分がずっと若く、男性はみな自分に魅力を感じて、思いのままになると思っている。しかし若さが永遠ではないこと、自分がもはや若いころに比べて魅力的ではないことを不倫相手に直截的な(あまりに直截的な)言葉で突きつけられる。
さらに夫はマリーアの行動によって悩み、自殺未遂までしてしまう。自分が意図せぬまま人を追い込んでしまったことや、一人の人間が孤独に苦しむ姿を見せつけられ、マリーアは当惑する。しかし罪悪感というよりは、「この人たちがどうしてこんなことをするのか意味不明」といったふうである。
若さや周囲の男性が自分から離れていくことに気づいたマリーアは、アングネスの死も相まって、孤独を埋めるために姉のカーリンに話しかける。それまでカーリンに話しかけていなかったことから推察するに、姉本人にはさして興味がなく、「他にいないから」カーリンを選んだように見える。しかし他人の視線に敏感なカーリンはそのことを鋭敏に察知し、指摘する。
マリーアは口では「心からの語らい」を望んでいるが、一方ではカーリンへの印象を心のうちに秘めたままであり、心の中に壁を作っている。他人から孤独を打ち明けられ、求められても、引いてしまって自分から与えることができない。そしてそのことに対して、指摘されるまで無自覚である。
アングネスが蘇ったときも、マリーアは口では「妹だもの」とアングネスを受容するが、抱き寄せられて初めて自分から相手を拒絶してしまう。そして自分のいう「心からの語らい」や「姉妹の絆」が建前でしかないことを、叫びとともに自覚するのだ。
自身の冷たさを自覚したマリーアは強い。それまでは周囲の孤独の表出に対して引いたり泣いたりしかできなかったマリーアが、カーリンの訴えを斥け、関係が建前であることを自分から表現する。この映画の中でマリーアは愛の幻想を捨てて強くなり、逆にカーリンは壁を崩されて弱くなる。
家族の死によってそれまで保っていた体裁が崩れ、あるものは弱くなり、あるものは強くなる。心が通じ合う瞬間は容易に忘れられてしまうが、そうした一瞬を永遠に生きたいと祈るひとは聖なるひとである。