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SFが引き起こす混乱-テッド・チャン『息吹』

ここ数年、SFジャンルが盛り上がっていると言われていて、その証拠に定期的に傑作が投下されるのでそれだけで生きてる甲斐があるなと日々作家に感謝している。

さて、日常を過ごしていると、時間というものは常に一定で、当たり前に不可逆なものとして、過去から現在、現在から未来へと一直線に流れていくばかりだ。

そもそも時間がリニアに流れていくことについて、普段は意識することもない。私は、多少なりSF作品に触れるようになって、この時間の流れについて、時々疑問を抱くようになった。

初めて『幼年期の終わり』を読んだ時、私は「いやこれ人類補完計画じゃん!」と瞬間的に頭の中でつっこんでいた(事実としては当然『エヴァ』が『幼年期の終わり』から影響を受けたと考えるべきだが)。

科学分野でも功績を残したガチ科学者でもあるクラークの、それっぽい(としか素人には判別できない)種々の科学理論や、巧みな筆致で描写される壮大な“人類の夜明け”…『幼年期の終わり』は、それらすべてに心躍らされる大スペクタクルだった。

けど、個人的に一番心を打たれたのは、最後の最後に明かされる、時間は一定に流れるものだという固定概念の破壊だった。

(必ずしも物語の根幹には影響しないものの、以下ネタバレ注意)

異星人たちの遭遇から幕を開ける『幼年期の終わり』では、その「オーバーロード(上帝)」と呼ばれる異星人が、なぜか人類がこれまで思い描いていた悪魔そのものの姿形ーー翼と角と尻尾のある巨体ーーをしている。

過去に一度彼らと遭遇した記憶が継承された、わけではなかった。正真正銘、人類とオーバーロードの邂逅は初めてだった。

ではなぜ、彼らは人間が語り継ぐ悪魔そのものの姿で現れたのか。

“人類の夜明け”に立ち会うこととなったオーバーロードは、人類にとって、死の象徴でもあった。人類最後のこの記憶が、時を遡求して、有史以来「私たちに死をもたらす悪魔」の造型に影響を与えていたというのだ。

幼年期の終わり』で、それは「未来の記憶」と記述されている。記憶とは必ずしも過去から未来に受け継がれるだけのものではなく、未来から過去にも遡求するものだと。原因と結果という因果関係が、そこでは説得力をもって反転していた。

自分は根っからの文系のため、何度説明されても相対性理論とは?とかが理解できないけど、SFを読んでいると自然と、この時間に関する混乱が引き起こされる。

この世には無数の世界線があるだとか、斜め方向に進む時間軸があるだとか、4次元どころか11次元だとか。

SFに限った話ではないけれど、SFではたびたびこの常識からの逸脱が起こり、その外連味(とんでもない大ボラと言い換えてもいい)こそがSFの醍醐味だと思っている。

この奇妙な混乱は、自分にはとても心地いいものだった。混乱とは摩擦のことで、摩擦は想像力に助走をつけてくれる。

だから『エヴァ』が未来の記憶として『幼年期の終わり』に影響を与えているのだというトンデモ解釈が提示されたって本当はいいんだ(冗談だけどね)。

一番最近では、テッド・チャン『息吹』が、大きな混乱を呼び起こしてくれて最高だった。

メッセージ』という映画にもなった「あなたのための物語」では、「語順が自由」という未知の言語と、フェルマーの最小時間という原理を通して、「過去と未来に物理的差異はない」という時間の対称性を見事に描き出した。

言葉と認識への揺さぶりによって混乱する頭で物語にしがみついていくと、宇宙人とのファースト・コンタクトものでもある「あなたのための物語」という小説のダイナミズムに飲み込まれて、ラストでまるで時間が折り畳まれているかのような奇妙な感覚に包まれた。

新作の『息吹』も、その意味で刺激の詰まった玉手箱のような作品集だった。

例えばSFの代表的なジャンルであるタイムトラベルものにも大きく分けると2種類あって、過去を変えられるタイプと過去を変えられないタイプとが存在する。

後者の場合、その多くが決定論的な寓意を帯びていて、その物語にはどこか悲しい旋律が流れている。

それはテッド・チャンが『息吹』の「作品ノート」で書いている通りで、例えば「商人と錬金術師の門」という短編は、まさにそこから着想された作品だ。

「過去の出来事を変えたいという願いをみんなが抱くのはよくわかるが、その一方、個人的には、過去を変えられないことがかならずしも悲しみに直結しないようなタイムトラベルものが書いてみたかった」
テッド・チャン『息吹』所収「作品ノート」より

過去は不変で、未来は必ず収束する。それが悲劇性を帯びてしまうのは多分、もしそうだとするなら、常に「現在」という地点にしか居られないわたしたちがあくせく奮闘する毎日が、時に馬鹿馬鹿しく、滑稽で無駄なものに思えてしまうからだろう。

物語とは不思議なもので、ある種の物語には確かに、それを読んでいると、“まるで運命というものが本当に存在するかのような感覚”がとても現実味をもって受け入れることができることがある。

「商人と錬金術師の門」では、タイムトラベルしても、誰も過去を変えることができない。起こったことを、なかったことにはできない。けれど、過去を別の視点から見つめることで、これまでとは異なる意味が立ち上がり、過去ではなく自分を変えることができる。

昔、思想家の東浩紀が2chの自分のスレに降臨し、お酒を飲みながらリアタイで寄せられた質問に回答するというイベントが起こった。その中で、「愛とは何か?」という質問に、「人生が一回しかないことへの覚悟と諦めと肯定」と答えたことを思い出した。

また、表題作「息吹」では、“密閉された部屋”である作中の宇宙の姿が解き明かされ、一つの有限の宇宙の終わりが宣告される。しかし、そこで、いつかこの宇宙にたどり着くかもしれない別の宇宙の探検家に向けてしたためられたメッセージに強く胸を打たれる。

宇宙は有限だが、そこで育まれる命の多様性には限りがない。そして、住民の手によって創作されたもの、そのすべては必然の結果ではない。だからこそ──

優れた物語は、必ず人を混乱させる性質を持っている。そして、彼の書く物語の持つしなやかさ、美しさを、自分は十分に表現できない。


さて、「KAI-YOU Premium」を運営していて思うのは、このメディアは、何か答えを提示するものではないということだ。

わかりやすさはたいていの場合、正義だけど、その意味でKAI-YOUが正義だったことはない。秩序よりも混沌を選びたいと思ってきた。混乱をもたらすメディアがあってもいいと思っているし、そうでありたいとこれからも望んでいる。

※2020年7月1日・8日にKAI-YOUメルマガにて配信された記事です

新見直

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KAI-YOU Premium Chief Editor
1987年生まれ。サブスクリプション型ポップカルチャーメディア「KAI-YOU Premium」編集長/株式会社カイユウ取締役副社長。
ポップリサーチャーとして、アニメ、マンガ、音楽、ネットカルチャーを中心に、雑誌編集からイベントの企画・運営など「メディア」を横断しながらポップを探求中。

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