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空白というリズムをつくる(つくりたい)【とあるエッセイ #05】

余白のない生活とはよくいったものだ。
毎日毎時間、ギッシリと予定が詰まっている。朝起きて、カレンダーを見てため息をつく。詰め込んでいるのは自分自身であるにも関わらず、だ。

「余白をつくりたい」
そんな余裕を持った生活に憧れる。

しかし、なかなかに余白をつくるというのは難しい。
無理やりにつくった時間の余白は、細かいタスクや連絡の返信、できていなかった家事をしたり、結局、他の事柄をリカバリーするために使ってしまったりする。

小さなタスクは片付いた。でも、時間の余白をつくったはずなのに、休んだ気になれない。
一体、なんの時間だったんだろう、少しばかりの疲労とため息をつきぬがら眠りにつく。

そんな日々を過ごしていると、果たして必要なのは余白なのだろうか?という問いが頭に浮かんできた。

余白はあくまで予備なのではないだろうか。
余白はバランスを取るためのものであり、意図的なものだ。

本当に必要なのは"空白"なのではないだろうか。

空白…つまり、何もない時間。空白の時間。
まっしろで、なにもない時間。何者でもない時間。

生きていると、常になにかの役割を自認し、意識してしまう。
会社員である自分、誰かの友人である自分、家族の一員である自分、妻である自分、この社会に生きる自分。
なにかを意識してずっとぐるぐると考え、行動してしまう。
そんな思考の中だと、たとえ時間があったとしても、本質的にぼーっとするのはなかなかに難しい。

わざと、何ない休日をつくる。それでも「何をしようか」と思ってしまう。
せっかく時間がある日なのだから有意義に過ごしたいと思ってしまう。

何もなくていいのである。それなのに、無為に過ごす、ことは難しい。

だから、人々はデジタルデトックスだったり、瞑想をしたりするのたろう。無為に過ごすにも、工夫や努力が必要なのかもしれない。

そんなことを、何もしないと決めたはずの休日に考えてしまい、そしてこんな文章までしたためているなんて、皮肉なものである。


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Tajima Kaho
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