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怠惰で作る音楽と幸福論

 アツシグラウンドの時々ドキドキ音楽の話。それなりに幸せならいいんじゃねっていう幸福論の話。

 俺が曲を作ると、その曲にその時の感情とか考えとか、そういうしょうもないものが見え隠れする。

9月の雨、風の怒号
動き出した山を眺め
普遍の中で、明日の朝まで
虚栄の咆哮を聞く

快速列車の後ろの方で
目的地など知りやしないが
窓に当たる水滴を見ては
膨らんだ俺を哀れむ

9月の鼓動、吐き出したのは
いつのまにか、変わった景色
「お隣さんが亡くなったみたい」
俺も大人になったのか

9月の雨、風の怒号
動き出した山を眺め
普遍の中で、変わらないのは何だ?
俺を迎えてくれるのかい
決して変わらないわけじゃないが、
特別な意味をくれるんかなぁ
9月の雨と余力で生きてる
俺を許してくれよ

駅に着くと、君の幻影
雨の音が変わらず聞こえ
知らないお店に入ってみると
飲むコーヒー、どこか懐かしい

ていう歌詞を書いた。今眺めている山だって、もしかしたら噴火でもして変わっちまう可能性がある中で、ずっと変わらないのは何や。懐かしさ?考え方?普通に変わるくね。

 地元に大好きな駄菓子屋があった。家から徒歩5分もしないところにあって。でも気づいたら営業をしなくなっていて。最近その建物が取り壊されていた。更地になったその場所を眺めながら、地面がすごく遠く見えた。俺も大人になったんやなあ。そんなことを思いながら、日差しに照らされた俺の髪の毛はキラキラ光っているけれど、内心そんな綺麗なもんじゃあないし。それなりに幸せならいいんじゃないかって考える程度の余裕しかない。理不尽とか不条理とかを経験しすぎると、莫大な幸福を望むよりも、小さな幸福を望んでいたほうが、幸せな気持ちになりやすいし、仮にまた理不尽さやなんやお前と思うことがあっても、受け入れやすい。そんな生き方じゃダメですかね、、、

 全く知らない場所に行くというのもまた面白いもんですね。最近、死ぬほどイライラしたことがあったので、大学の授業を抜け出してタワレコに駆け込み、、、8000円分、4枚のCDを持ってタワレコを出てから、早くこのCDを開封して聴きたい気持ちと、あの忌まわしき空間には帰りたくないという気持ちによる激しいバトルの末、スタバでコーヒーをゴクリと飲んでから帰ることにした。全く持って知らない土地と、知っている味のコーヒー。知らないというドキドキ感と、知っているという安心感。この感情のバトルは勝敗がつかなかった。ここにいたい気もするし、帰らないといけない気もする。

 あまりにも突然に授業を飛び出したので、ちゃんと心配されました。

 結局、そういうイライラとか嬉しいこととか、辛いこととか、楽しかったこととかそういうのを、割と怠惰的に曲に散りばめるのが、意外とよかったりするんじゃないですか。辛かったことだって、思い返して見ればそれ特有のキラキラ、それなりの美しさ(というよりは切なさとか儚さとか)を放っているようにも思うし、それがあるからやっていけるようにも思う。

 社会は理不尽で不条理に溢れまくっているけど、、、目覚めたら俺は恐ろしく醜い化け物だった〜的な不条理を望んでしまうのは、不条理が割と幸福の片鱗をチラチラ見せてくるからじゃないですか。希望をちょっと見せてきた上で、地面に叩きつけるから、とんでもなく理不尽に思うし、不条理に思う。例えば先天性の病気とか、人類補完計画とか、ゼットンによる地球の破壊とか、そういうもはや誰が悪いとか言えないような不条理(人類補完計画はゲンドウのせいか、、)って諦めがついて、それなりに幸せならいいやって考えに陥りやすいんでしょうね、、、


 でも現実はそうではないので、ウルトラマンや怪獣のブチ上げバトル、使徒とエヴァの戦い、ゴジラの逆襲、巨影都市に全部出てきそうな、、、そんなことを待ち望むよりかは、不条理に遭遇したときの対処法が分かってた方がいいんでしょうね。だからこそ、俺は音楽を続けるし、俺の生き方ってやつを音楽にしていきたい。と思うんですよね。それがたとえ怠惰的なものだったとしても、人間らしくていいじゃないですか。

あんたも人間やろ>


作った音楽はSoundCloudにあげてます。こんなゴミ文章が少しでもいいと思った方はぜひに聴いて欲しいわけです。

アツシグラウンド


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