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和歌に師匠なし ただ旧歌を師匠とするのみ

《たまに、この道について尋ねる人があれば、宗旦は「本来、禅によるから特別に示すべき道とてない、ただ、自分が日ごろ話している古人の茶話を指月(行くべき道しるべ)としたならば、おのずと得ることもあるだろう」と答えていた。》(「茶話指月集」より)

 鎌倉時代初期の公家で歌人であり、歌壇の指導者として活躍した藤原定家が「和歌に師匠なし、ただ旧歌を師匠とする」と語ったという。宗旦と同じ意味のようだと「茶話指月集」の編者である、久須見疎安が語っている。

 その様な温い事で、茶の道を極められるのだろうか。それで良いなら、簡単な事なので助かる。自分一人で楽しむだけとか、友人や家族にお点前で茶を点ててあげるだけと言うならば、それでいいのだろう。何も好き好んで、楽しければいいだけのお茶を眉間に皺を寄せて、しかめっ面して飲まなきゃいけないものにする必要などない。そこに「昔の茶人はね、こうだったのよ」と言う話を、時々聞かせてくれる人がいれば、なお助かるわけだ。強いてあげれば、月2回会う、茶道のおっしょさんのような人がいれば、私の場合は事足りる。

 ところが、茶道の一部分だけでも生業とする必要があるとなると、話はまた、別物になってくる。それが問題だ。もしかしたら、そうなるかも知れない。仕事のために茶道を覚えようと努力をすればするほどテクニックだけが増えて、「仏を作って魂を入れず」と言うことになりそうで、先行きに不安を感じてしまう。

 茶道をビジネスの根幹に据えた新規事業の提案書を会社の幹部に直接、手渡した。いつのまにか、そこまで茶道にのめり込んでいる。危ない兆候ではあるが、私の性分として、何らかの結論を得るまで突き進んでしまうだろう。

  もしかして、この先、再び事業に失敗して何もかも失い、最後に残ったものが一つの茶杓と棗と茶筅と、そして少し欠けた黒楽茶碗だったりするのかも知れない。その時、流れに任せて自分のために点てた一碗のお茶に「これだ!」と一言いうために、その舞台の設(しつらえ)を整えているのが、今の私なのかも知れない。

 だとしたら、誰にも迷惑をかけないのなら、こんな素敵な一碗は他で味わうことが出来無い、唯一無二の一碗になるだろう。さてさて…………。

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