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長谷川等伯 小説にするまでのドキュメント

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「長谷川等伯」の生涯を小説で書き上げようと、決意。資料集めから人物像を作り。とにかく、小説として書き上げて脱稿するまでを、ルポルタージュ!
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長谷川等伯、本日脱稿、早速応募!

 書き始めて2年半かかりました。本来なら昨年応募するつもりでしたが、大先生のアドバイスを受け、さらに周囲の意見も参考にして、もう一年先延ばしにして本日脱稿。そして、早々にWEBで公募に応募しました。結果は「オール読み物」令和6年3・4月合併号誌上にて中間発表、6月号誌上にて決定発表となるわけですが。中間発表まで残ってくれれば。その間には、すでに次の小説の原稿が進んでいることと思います。  大先生にアドバイスをいただいたように、「1年に1作品応募して、担当編集者に名前を覚えても

神にも悪魔にも選ばれたことの無い私には、こんなに涙を流す物語は書けない……

 10月に応募締め切りの小説の最終段階の推敲をしていた時のことである。   時折、キーボードのキーを打つ手を止めて、中国のテレビドラマを観ていた。ドラマの感動的なシーンを観て、つい、一人で涙を流してしまった。  その涙の訳はドラマの内容が感動的だったこともあるが、それだけで涙を流した訳ではない。それ以上に自分の不甲斐無さを思うと、つい涙が込み上げて来た。どうして、このテレビドラマのような涙を誘う物語が書けないのか。悔しいけど、今の私には書けそうに無い。人間の心のヒダを揺さぶる

「われならで下紐解くな〜」伊勢物語はなかなか愛いな短歌揃い〜茶道で昇華するには

 元々、茶道は男性のたしなみだった。明治以降は女性が礼儀作法を学ぶ手段として、女性の間にも広めていったそうだ。  先日のイケメン講師のトオルさんが言っていた「茶道はお点前3割、古典文学7割」と言う言葉。それを裏打ちするかの様に賛同の意を示したおっしょさんであったが……。しかし、その真意はどこにあるのか理解不能に陥りそうである。  この二ヶ月余り、源氏物語をはじめ古今集、新古今集、万葉集、伊勢物語と斜め読みながらざっと読んできた。全てに共通していることは大半が大人の恋愛を歌った

『和敬清寂』こそ、日本流の民主主義

(※「茶道はお点前三割、古典文学七割」とイケメン講師のトオルさん:よりの続き)  私と講師のトオルさんの会話をおっしょさんは、私の隣りの席で黙って聞いていた。   お稽古が終わって帰りの挨拶の時の事である。おっしょさんはいつものように、 「何か質問は?」  と聞かれた。私は、 「聞きたいことが沢山あったのですが、全て忘れてしまいました」  と本音を漏らした。すると早速、おっしょさんは、 「なんと、全て忘れてしまったのですか」  と、ツッコミを入れて来た。しかも、さらにおっし

江戸小紋と利休忌 着物の「格」に開眼!

 おっしょさんが先月、家元で行われた利休忌の集いに参加して来たことを話してくださった。その事もあってお茶室の床間には利休の姿絵の軸が掛けられていた。  おっしょさんにお尋ねした。 「利休の本歌の絵は二点しか無いと聞いています」 「私も、その様に聞いております」 「一点は利休が血気盛んだった頃の絵。もう一点は長谷川等伯が、利休が亡くなられた五年後に描いた絵。床に掛けられているのは後者の長谷川等伯の写しだと思います」 「何回も描き写されてきた事でしょう」  そこでおっしょさんは、

「受賞出来ても出来なくても、買って読みますよ」と、おっしょさん

 茶道のおっしょさんが柄杓を使って大きめのポットから、炉にかけてある茶釜にお湯をつぎ足した。その一連の動作の中で、一つ気になる動作があった。それで、いつもの癖で、おっしょさんに質問した。 「茶釜に柄杓でお湯を注ぎ足すときお湯を注いだ後、柄杓の合(ごう)を茶釜の口の中で水平にして止めるのは、どうしてですか?」  と。私は学生時代、ホテルの厨房でアルバイトをしたことがある。その時、コックが鍋からお玉でスープをすくった後、お玉の底を水平にしてスープにお玉の底をつけて持ち上げると、滴

茶道によって「美を見極める審美眼」が鍛えられたようだ……

「カゲロウさん。茶室の中で短い距離を移動する場合、両膝をついたまま両手のこぶしを使って移動することを『にじる』と言うでしょう。あと頭を下げて身体を小さくまげて入る入り口も、にじって入るでしょ。どうして、そういう風になったか、わかりますか?」  と、おっしょさんに聞かれて即答できなかった。おっしょさんは、話を続けた。 「私はあなたが教室に通うようになった一年前から、その話をしたかったの」  そんな前置きをするとおっしょさんは、茶室の中でにじって移動することの意味を話し始めた。

稀代の人間好きで人垂らしの秀吉が何故、利休に切腹を命じた?

 どうして秀吉は、利休に切腹を命じたのか。  信長なら、いざ知らず。信長には明快な人間観がある。善は善、悪は悪。軽薄なゴマスリは醜悪。姑息なやつは、斬り捨て!   一方の秀吉は人垂らしで、稀代の人間好きである。そんな彼は悪人は悪人として、臆病者は臆病者として、人としてのおかしみを愛する人間である。その秀吉が、長年親しんできた利休に切腹を命じた。腑に落ちない。  ある日、秀吉は茶釜を作りたいと思って、どんな形が良いか思案した。家臣にもアイデアを出させたが、良い案が出ない。そんな

等伯と久蔵の障壁画が秀吉の子、鶴松を弔った祥雲寺にあった意味

 安土桃山時代。京の都に、豊臣秀吉と淀殿との間の子、鶴松の菩提寺として建立された「祥雲寺」というお寺があった。その話を今書いている「長谷川等伯」の小説の中にを登場させるのだが、困っている。このお寺の細かい部分が、全くわからない。  実はこのお寺には等伯と息子の久蔵、そして長谷川一派が手がけた沢山の絵が、壁や襖を飾っていた。そのうちの何点かは現存しているが、どのように祥雲寺の壁や襖を飾っていたのかは、全くわかっていない。それらの絵は、長谷川等伯とその息子・久蔵の生涯の中で最も重

読者を魅了する力は、作品の密度と取材努力……

 とある作家と司馬遼太郎の作品を交互に読み始めた。読み始めてしばらくすると、いかに司馬遼太郎の作品の密度が濃いか、一目瞭然。その物語の密度の濃さが、読者をぐいぐい物語へと引きずり込んでいく。  その密度の濃さは、ひとえに司馬遼太郎の常日頃の好奇心と行動力の賜物なのだろう。そして、土地の人への取材で、ひとつひとつの情報の裏打ちが為されている。作品のテンポの良さは、情報の濃さからくる自信が成せる技だと思えてならない。わずかの迷いはおろか、淀みなく物語が流れて行く。それは、舞台とな

地に住む精霊と、出会う受信機・・・

 奈良を訪れた時のことである。土地自体から発している、えも言われぬ力を感じた。これまで日本の沢山の地を訪れたが、土地自体から発する力の様なものを感じたのは、初めてのことであった。そのとき思ったのは、土地とそれを含む空間全てが、人に語りかけてくるということがあるのだ、ということである。 思い返してみると、それに近い物を金沢でも感じた。ただ、少し違っていたのは金沢で感じたものは島根県の出雲市を訪れたときに感じた物に、似ているように思えた。それぞれに共通している点は、幾重に

「剣を学ばずに既に剣の師範」と柳生但馬守

 徳川家光の指南役となった但馬守の元に、ある武士が「御指南願いたい」とやって来た。但馬守は武士を見ると、指南を断った。 「そこ元は既に、剣の奥義を会得されておられる。どちらの流派をお納めでござるか」 「それがしは、剣は一度も習ったことはござらぬ」 「そうは申されるが、どの流派でござるか」 「まことに剣は習ったことはござらぬ。強いてあげれば、幼き頃から死を恐れぬ心を持ちたいと常々思って生きて参ったことでござります」 「それです。剣の奥義は死を恐れぬことです。そなたは、剣を学ばず

現在280枚! 一年の茶道が、沢山の物語を与えてくれた……

 長谷川等伯を書こうと決意して一年半。そのために茶道教室に通い始めて一年。現在400字詰め原稿用紙換算で、280枚。物語は佳境に入ってきた。  なにせ、今年の年頭に「国宝 松林図屏風」を東京国立博物館で見て以来、その作品に秘められた数多くの謎に、毎夜、うなされながらの創作活動だつた。それでいて毎日楽しくて、ドキドキしながら暮らすことができた。周囲の人とも茶の湯の話や、日本画や禅語の話を通して、より深く繋がることができたように思える。私の一方的な片想いかも知れないが。  能登

茶室で待てば、海路の日和あり

 長谷川等伯の小説を書いていて、彼を浮き彫りにするために千利休を登場させた。しかし、私の小説の中でも利休は、ついに秀吉に切腹を命じられて舞台から降りることになった。物語は、まだ途中である。そこで考えついたのは、後半は等伯の後妻を中心に展開しようと言うアイデアだ。  先日の茶道のお稽古で、それはそれは魅力的な生徒さんを見つけてしまったことが、創作のモチベーションに火をつけてくれた。ぜひ、彼女をモチーフに、等伯の後妻の話を展開したいと思い立った。  そう思って作業に取り掛かる