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「麻雀プロへの応援」とは、「想い」なのか「お金」なのか?



結論

結論から言うと、「お金」です。

だからと言って
「応援=金」とは思っておらず、
応援=金and想い」だと思っています。

タイトルからも連想できるように
捉え易いのは
「金or想い」なのかも知れないけれど、

「応援」という温かい行為は、
"OR(二極化)になるようなドライなもの" ではなくて、
"行為自体はシンプルだけどウェットな印象" を抱いているので、
OR ではなく AND と捉えています。

私の話

私は応援している女流プロには、
初めましての際にとりあえず一定額のアマギフを例外なく差し上げるようにしています。

「なんであげているの?」と聞かれたらは、
以前麻雀連盟の和泉プロが
貰って嬉しいもの(困らないもの)ランキングで一位に上げていたからです。

私のエゴで応援する際にプレゼントをしているのだから、
せめてお相手が困らないもので、
なるべく嬉しいものであって欲しいなと思うが故です。

とはいえ、
アマギフをあげていない人は応援していないわけではないし、

なんだったら、
お会いする頻度だったり
プロを前向きにさせるような言葉を投げかけられたり
相手を楽しませられる方のほうが、
プロからしたら私よりも価値が高いかも
知れません。

お金と想いの違い

では、なぜ私にとっての応援が「お金」だと思うのかについて書いていきます。

まず、
受け取って嬉しい「想い」というのは
様々な前提が絡むからです。

前提というのは、
例えると
受け取り側の心情だったり、
想いを受け取る or 発するタイミング だったり、
体調とか、感情の重さや、表現に用いる語彙などです。

"人の想いの果て" には、
絶対的な到達点がないから、満点という概念が存在し得ません。
多くの場合自己満足になると思います。

現実に、
私が「安直に和泉プロのランキングを信じて、コンビニで購入するだけで渡してる」対極に。
「自分のポリシーやランキングがあって、想いも手も時間も込めて渡すものや言葉を作る人もいる」ことは想像するに容易いです。

絶対的なものがないからこそ、「想い」には
価値がつけられず(プライスレス)自由で良いと思っています。
自由が故に、悪い方にも存在し得ます。
例えばガチ恋勢とかかしら。
その感情の向き先とか未来とか考え出しちゃうと… みたいな。

そのあたりは古傷を抉るので言及は避けておきます( ˘ω˘ )スヤァ…

しかし、「お金」の価値は絶対です。

私からもらった3千円、
祖父母からもらったお小遣いの3千円、
貧乏or裕福な時にもらった3千円だったりで、
その時の「お金」に対する相対的な評価は変わりうるけれど、

"三千円" というお金の価値は変わらないから。
お渡ししたお相手が自由に使えるし。

「想い」や感情が計測や数値化が難しい反面、
「お金」は楽で良いです。
気持ちに上乗せして明確に数値化してお渡しできるし、
お相手の人生の足し(絵の具)に確実になるから、コスパが良いです。

私の価値観・人生観

お金は絵の具 で、人生はキャンバスで。

「"どのくらいの大きさのキャンバス" に "何を描きたいか" は人それぞれだけれど、例外なく "お金という絵の具" がなければ、"描く" のが難しい。」
「だから、"キャンバスに絵を描くため" に 我々は "お金" を得たいのであり、"お金" を得るために労働をしている。」
「その労働をすることでキャンバスが壊れてしまうのであれば、それは本末転倒であり….(ry」

みたいな話。

私が7年くらい前から色々な人に言ってるものです。

もしかしたら誰かも似たようなことを言っているかも知れないけれど、少なくとも当時の私が至った例え話です。
こうして書いてみると、ある種の資本主義の末端、社会の駒としての考えが染み付いているのかも知れませんw

今でもその価値観は私の中で不変です。

私は
"その人がキャンバスに何を描こうとしているのか"
を聞いたり、妄想したりするのが割と好きです。
あと、"何が描けなかった" っていう話を聞くのも好きです。

そして、
その人を知った気になって、
全然違くて、「浅はかだな〜」と勝手に傷つく経験は数え切れませんw

自分のキャンバスにはため息が出てしまうほど向き合っているので、「他の画伯がどんなものを描いているのかな」と興味を持つことは至って自然なことだと思っています。許してほしい。

ですが、
どんどん世の中が不可侵になっているのは、
ある種の多様性が尊重され生きやすくなっていると思う反面、
社会としては寂しい顛末にベクトルが向かっているのかなと憂いたりもします。

話が広がりすぎたのでこの辺りで終わり( ˘ω˘ )スヤァ…

自分の話ではなく、麻雀プロのお話に戻します。

麻雀プロも多岐に渡るので、
お会いしたプロにおいても詳細な部分までは知り得ません。

それでも「応援したい」と思える人が多いです。

なぜそうなのかを考えると現実問題、
お金のためにやっている人は少ないと思う からこそ、
自分の普段の仕事よりも健全な部類に入りそう なので、
より好感持てるというか。

それぞれのプロが「好き」を突き詰めているというか。

どんなバックボーンがあれど、「挑戦」っていう所が大きそうだから。
もしかしたら私は「挑戦」する大人が好きなのかも知れません。

結論に至った思考

※書きたい物事が多岐にわたるため、話があっち行ったりこっち行ったりですみません。
話を締めになんとか向かわせるために必死です。
読みづらいかも知れませんが、ここまで読んでくれてありがとうございます。

"扱いに困ってしまうかも知れない想い"
よりかは、
"使途が自由で良いお金"(に近い価値をもたらすもの)
を私からお渡しする。

これが
"今の私にできる最大の応援" なのかも知れないという所です。

私の過去を遡ると
「夢を追ってた時代」や、「がむしゃらに生きていた時代」
に応援されることは何度かあったかも知れない。
しかし初めて応援する側になってみると、
自分の中に「型」がないこと
に気が付かされました。

正直、自分の中の「型」だったり「バランス」は、まだ試行錯誤段階かも知れません。
これについては、麻雀に対して、麻雀プロに対しての熱に甘えて、身を任せる方が楽かも知れませんが、そこを思考停止でやるような事は避けたいです。
なぜならば自己に対して納得感を持てない行動をしたとて、後々後悔してしまうことばかりなので。

本来ならば、
考えなくても良い、どうでも良いことかも知れないけれど、
まぁお盆の連休中だからこそ、ぼーっと考えたりすることができるタイミングであればまあいっか?となりました。

所信表明

雀荘に通うことも応援、
バーゲスに通うことも応援、
イベントに参加するのも応援。

SNSに叱咤激励するのも応援、
優しい言葉をかけてあげるのも応援。

本人に伝わらない形で、心に留めておくのも応援。

色々な応援があって良いと思うけれど、なるべくは
自分も相手も温かくなるような応援であって欲しいと願う。

誰かを下げる応援は応援ではないと思ってしまうので、
そこは気をつけていきたい。

金を出さずに口だけ出すような大人はカッコ悪いから、
そこも気をつけていきたい。

終わりに

己のキャンバスを豊かにするために麻雀プロ(推し)がいる人が多い中、"キャンバスに描きたいもの" に対する思考を放棄したり、二の次になってしまっている人いませんか。

あなたの人生が豊かであることが、ひいては麻雀プロのご活躍にもつながると思っています。

日常を破綻させたり、体や心の調子を崩したりしてまで、応援しなきゃいけない人なんて、この世界には例外なく存在しません。
(色恋営業じゃあるまいし…!!)

熱に狂うことは楽しいけれど、その熱は永くは続かないから。
熱だけでなく、永く続けるためには安寧が大事だから。
たまには、安寧をテーマに自分と向き合ってみても良いのでは。

普段落ち着いているからこそ、熱が入った時に より気持ちが入る。みたいなところありませんか?

恒常的に熱いところにいると、
いつかあてられてしまって、疲れちゃうかも。

「趣味で疲れる」ってどこかに無理が生じているサインだと思うので、自分のペースを知ることも時には必要だと思っています。

落ち着いて自己分析して、
良いバランスを見極めてみても良いかも知れません。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
読んでくださった皆様。素敵な推し活ライフを!

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