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鍵盤楽器音楽の歴史(21)続・ファンタジア

前回で見てきたように、ファンタジアという曲種は17世紀後半には概ね絶滅します、ドイツを除いては。そしてドイツではファンタジアという概念に大きな変革が起きます。

17世紀ドイツの音楽を扱う際、しばしば取り沙汰される概念に「スティルス・ファンタスティクス」"Stylus Phantasticus" というものがありますが、本来のアタナシウス・キルヒャー (1601 - 1680) による定義は、単に自由形式の器楽についてのものであって、奇抜な何かを意味しているわけではありません。

「ファンタジア様式は器楽に向いている。これは最も自由で束縛されない作曲法であり、言葉にも和声的主題にも縛られない。これは和声の隠れた意味の開発と、和声的なフレーズと対位法を取り扱う技能の才覚を示すものであり、一般にファンタジア、リチェルカーレ、トッカータ、ソナタなどに分類される」

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Musurgia Universalis (1650), p. 585.

同書のp. 465でキルヒャーはこうも述べています。

「…このような楽曲を一般にプレリュードという。イタリア人はトッカータ、ソナタ、リチェルカーレと呼ぶ。卓越したオルガニスト、ヒエロニムス・フレスコバルディの門下で皇帝のオルガニスト、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーは『ドレミファソラ』による楽曲を作曲したが、作曲技術、模倣対位法の点でいかなる不足もなかった」

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そしてヨハン・ヤーコプ・フローベルガー (1616 - 1667) のファンタジアの楽譜が示されます。キルヒャーの「スティルス・ファンタスティクス」というのはこういうものでしょう。

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さて、17世紀のドイツではスヴェーリンクの弟子たちが活躍し、後にスヴェーリンクは「ハンブルクのオルガニスト製造者」などという渾名を頂戴することになりますが(「ハンブルク」が抜けている事が多い)、その弟子の一人ザムエル・シャイト (1587 - 1653) はハンブルクのような北ドイツではなく中部ドイツのハレで活動した人です。

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彼の『新タブラチュア』Tabulatura nova (1624) はオルガン音楽史における記念碑的作品です。何が「新」かといいますと、例えばスヴェーリンクの作品はドイツではこんな感じで伝えられています。

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D-B Ms. Lynar B3 (Magister Jan Pieterszoon SWeelinck)

このついに上声部の線譜が消失したタブラチュアを現代では新ドイツ・オルガン・タブラチュアと呼び、以前の線譜付きのもの古ドイツ・オルガン・タブラチュアといいます。

1声部のために無駄が大きいという気持ちはわかりますが、本末転倒もいいところです。1570年頃に生まれたこのタイプのタブラチュアをドイツ人は18世紀まで使い続けます、ドイツ人好みの対位法音楽を書き表すには全く不便な記譜法に思われるのですが。ただ文字によるタブラチュアは誤写が少なく、タブラチュア手稿で伝えられた楽譜は数世代のコピーを経ても変化が少ないため、資料としての信頼度は高いです。

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しかしながらシャイトの新タブラチュアとはこれのことではなく、単なる普通のオープンスコアです、ドイツではそれが新しかったのです。

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この "Fantasia super Io son ferito lasso" は、パレストリーナの『私は傷つき』Io son ferito lasso の旋律を主題に、それを3つの他の主題に結びつけた「4重フーガ」です。J.S.バッハが未完の最終フーガでなそうとしていたことがここに既に実現されています。

かようにファンタジアとは制限なしに対位法技術の粋を追求する場になっていたのですが、やがて異なる潮流が生まれてきます。

続きます。

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