80冊読書!4冊目 銃・病原菌・鉄(上)

この読書も早くも4冊目に突入。実は思ったよりも早いペースで進んでいる。最初に選んだ本が良かったのだと思う。人類史、世界史、哲学の本をまとめて80冊!とは言ったものの、テーマ的にもなかなかハードな本も多い中で1週間に1冊ペースで読み進められるかは分からない。ただ今のところ、目的である知的好奇心を満たしていくということは十分にかなっているように思う。

さて4冊目は数年前にベストセラーになった「銃・病原菌・鉄」。病原菌って、なかなかホットな話題です。サピエンス全史よりも前に発刊された人類史の本。また違った角度から眺められるのは楽しみである。

著者は言う。

世界のさまざまな民族が、それぞれに異なる歴史の経路をたどったのはなぜだろうか?本書の目的は、この人類史最大の謎を解明することにある。


プロローグ ニューギニア人ヤリの問いかけるもの

著者がニューギニアで出会ったヤリというい政治家が問いかけてきた。

あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?

西洋が産業革命以降圧倒的に技術的に進歩し、アフリカや南アメリカその他の地域はその進歩から残された。それは人種の優劣という人種差別につながっていった。すなわち、科学的な進歩ができなかったその地域の人種は自分たちよりも劣っていると。著者はニューギニア人と33年間いっしょに研究する中で、平均的に彼らのほうが西洋人よりも知的だと感じたらしい。周囲のものごとや人への関心やその表現力、頭の中で地図を描く力など。その理由に書いているものはサピエンス全史と通じるものがある。

ヨーロッパ人の社会では今日、生まれた子供はたいていの場合、その知性や遺伝的資質に関係なく生きながらえ、子孫を残すことができる。ヨーロッパ人は、数千年にわたって、集権的政治機構や警察組織や裁判制度が整っている人口の稠密な社会で暮らしてきたからである。

サピエンス全史ではこういう。

平均的なサピエンスの脳の大きさは、狩猟採取時代以降、じつは縮小したという証拠がある。狩猟採取時代に生き延びるためには、誰もが素晴らしい能力を持っている必要があった。農業や工業が始まると、人々は生き延びるためにしだいに他者の技能に頼れるようになり、「愚か者のニッチ」が新たに開けた。凡庸な人も、水の運搬人や製造ラインの労働者として働いて生き延び、凡庸な遺伝子を次の世代に伝えることができたのだ。

こう書いてしまうと職業による差別のようにも聞こえるが、ここで言いたいことは先進国の社会から見て「劣っている」と思われる社会においては、実は個人レベルにおいては優れているということである。

著者はこの本をたった一文で要約しろと言われると下記のようになると言う。

歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない。

昔サラリーマンをやっていて、今経営者をしている自分は、昔の同僚と会うと感じることがある。今の自分は彼らよりも生き抜く力や事業をやる能力を持っている。しかし、そもそもの能力という点でいえば、彼らのほうが優れていたと思う。結局、起業という難題にぶちあたり、苦しみながらも生き抜いてきた結果、その能力を身に着けるようになっただけで、彼らは大組織という自分ひとりが頑張らなくても生きていける環境に過ごしていただけに過ぎない。もっというならば、大組織で生き抜く力は私よりもずっと優れているはず。だとすると「環境の差異」によるものという言葉は大いに納得できる。

そして、このヤリの疑問を軸にこの本は進んでいく。


第1章 1万3000年前のスタートライン

10万年前から5万年前の「大躍進」の時期に人類に画期的な変化が起きた。その引き金のひとつに「人類の喉頭が発話可能な構造になった」ことがあげられる。人間の創造性の大きな部分が言語能力に依存しているからである。

「言葉を話せる人間」というテーマはとても面白い。人間を知る方法としても、今後「言語」というアプローチで人間を知る本を読んでみたいと思っている。

第2章 平和の民と戦う民の分かれ道

ポリネシア社会の多様性は少なくとも6種類の環境要因に基づいている。気候、地質、海洋資源、面積、地形、隔絶度である。

同じポリネシアでも狩猟採取がメインの社会、農耕社会、平等な村社会、階級社会などさまざまな社会形態が存在している。ポリネシアの社会を研究してみると、もともと同じスタートラインにいた人びとが環境によって作り上げていく社会が異なることを示していることが理解できる。

狩猟採取しかできない気候の島でかつ限られた広さしかない場合と、農耕ができ、大きな広さを持っているところに住んでいる場合では、1万年前まで同じ生活をしていたとしても、長年にわたる環境の影響で全く異なる社会をつくる。農耕民は貯蔵と再分配ができるので、専門の職人を養うことができる。軍人、兵士、役人など。これが新たな社会形態をつくる要因となっている。一方で農耕に適さない島に住み着いた人は狩猟採取民生活に逆戻りしたわけである。

そういえばふと思い出したが、よくブラタモリで「○○(地名)はなぜ日本一の○○になったのか?」というお題が出て、見てまわるうちに、もともとの地形があったり、採れる石であったり、さまざまな地形的特性が絡みながらその土地ならではの特徴が育ってきたということが紹介される。社会形態とまでいかなくても、地質や地形が社会に大いなる影響を与えることは同じ日本であっても見て取れる。

ポリネシア社会における人口密度と人口規模の関係は、つぎのように要約できる。チャタム島の狩猟採取民のように総人口が少なく人口密度が低いところでは経済面での変化はあまり起こっていない。家族単位での自給自足生活をおくっており、社会的な分業化はほとんど見られない。分業化は、より大きくかつ人口が稠密な島で進展し、サモアやソシエテ諸島、特にトンガやハワイ諸島で頂点に達している。

このことは後の章で改めて語られるらしいが、総人口、人口密度と社会の分業化というテーマはとても興味深いものである。

第3章 スペイン人とインカ帝国の激突

世界史では、いくつかのポイントにおいて、疫病に免疫のある人たちが免疫のない人たちに病気をうつしたことが、その後の歴史の流れを決定的に変えてしまっている。天然痘をはじめとしてインフルエンザ、チフス、腺ペスト、その他の伝染病によって、ヨーロッパ人が侵略した大陸の先住民の多くが死んでいるのだ。

この章ではスペインのピサロがインカ帝国に来て、皇帝アタワルパと出会い、彼を捕虜にしてあっという間にインカ帝国を滅ぼすまでの様子を描いている。8万人の兵士を抱えたインカ帝国と、初期段階でわずか170人ほどの兵士しかいなかったスペイン。スペイン軍は1人の犠牲者も出さず、何千人という敵を殺し、自分たちの500倍もの数のインディオを壊滅状態い追い込んだ。もともとの大きな戦力差に対して一体なぜこうなってしまったのか?を解説している。

それはスペイン軍が鉄製の武器、甲冑を所有していたことと、馬を所有し、騎馬による戦いができたことによるところが大きい。当時の銃は火縄銃で、当初は12丁しか持ち合わせていなかったことを考えると、あまり大きな要因ではない。そしてインカ帝国は当時内部対立が起きており、内戦状態にあったこともあげられる。その原因となったことはスペイン人が持ち込んだ天然痘である。天然痘によって多くの支配層の人が死んでしまい、また王位後継者も死んだため後継者争いが起きていたのである。

もうひとつは「情報」である。この情報を得るための必須な要素として「文字」の読み書きである。読み書きのできるスペインはこれまでの歴史についての膨大な知識を継承していた。そのため以前にインカの民と出会った人の情報を仕入れることができた。一方文字のないインカ帝国ではスペインに関する知識を持ち合わせていなかった。そのためにスペイン人の危険性を認識することができなかったのである。

ピサロを成功に導いた直接の要因は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことである。本書のタイトル「銃・病原菌・鉄」はヨーロッパ人が他の大陸を征服できた直接の要因を凝縮して表現したものである。

第4章 食料生産と征服戦争

様々な人類史の書籍の中で「家畜」に関する話が出てくる。しかし、日本人は農耕をして社会を構成してきているものの、つい最近まで、家畜を育てて食べるという習慣を持っていなかった。少しネットで検索してみても、狩猟でイノシシなどを狩って食べたりはするが、家畜を育てて肉を食べることはあまりしていない。仏教の影響ともある。

家畜は肉や乳、肥料を提供し、また鋤を引くことで食糧生産に貢献する。そのため、家畜を有する社会はそうでない社会よりも多くの人口を養うことができる。

なるほど、確かに日本でも農業用に牛がいたりしている。またそれがベースとなって肥料もあるだろう。しかし家畜の肉はほとんどない。そんな日本社会でも多くの人口を養うことができていたのはなぜなのだろう?魚が多くいたからか?世界史とは少し異なる観点で日本の食にも興味が湧いてきた。

さて本題である。サピエンス全史でも語られていたように、狩猟採取の生活と農耕(または家畜)の定住生活では養える人口が全く異なる。その結果、食料生産に従事しないような階級を生み出し、大規模な王国を形成していく。また食料生産以外の専門の仕事をする人も養うことができるので、社会の分業化も進むのである。

家畜は移動にも変革を起こす。長距離を高速で移動できる馬の利用は軍事力を大きく左右した。また家畜を介して人間は病原菌をもらうようになる。人間だけが罹患する伝染病は動物に感染した病原菌の突然変異である。当然最初はある程度の人が犠牲になるが、時間の経過とともに病原菌に対する抵抗力も身に着けていく。抵抗力を持っている人が持っていない人の土地に侵攻したとき、疫病が大流行していった。

第5章 持てるものと持たざるののの歴史

食料生産は、それを独自に開始した地域を中核として、そこから近隣の狩猟採取民のあいだに広まっていった。その過程で、中核となる地域からやってきた農耕民に近隣の狩猟採取民が侵略され、一掃されてしまうこともあった。食料生産を他の地域に先んじてはじめた人々は、他の地域より一歩先に銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、各種疫病に対する免疫を発達させる過程へと歩み出したのであり、この一歩の差が、持てるものと持たざるものを誕生させ、その後の歴史における両者間の絶えざる衝突につながっているのである。

第6章 農耕を始めた人と始めなかった人

狩猟採取か農耕であるか?は二者択一ではない。一部の農耕をやりながら狩猟採取をするのは普通のことだったのであろう。昔の日本などはまさにこれに当てはまるはず。また狩猟採取=移動生活であるとも限らない。定住しながら狩猟採取を行う人々もいるし、移動しながら農耕をする人もいる。よって、人びとの生活は数千年をかけて少しずつ変わってきたと考えるのが適当である。

狩猟採取から食料生産へ人びとが移行していった要因は主に5つ考えられている。
①人類が野生動物を狩猟生活を行っていたが、その野生動物が減少(絶滅)してしまったこと
②狩猟採取が難しくなった時期に栽培化可能な野生種が増えたこと
③刈り入れ、加工、貯蔵する技術が発達し、食料生産のノウハウとして蓄積されたこと
④原因と結果はさておき、人口が稠密化して、食料生産が増えていったこと
⑤食料生産者は狩猟採取民と比べて数が圧倒的に多かったので、それを武器に狩猟採取民を追い払ったこと

第7章 毒のないアーモンドのつくり方

人類の栽培する作物の出発点はすべて野生種にある。たくさんある野生植物のうち、特定の種類だけがどうして人に栽培されるようになったのだろうか。アーモンドのように野生種は有毒なのに栽培種は無毒なものがあったり、野生種の味が栽培種にくらべてひどいものだったり、トウモロコシのように野生種と栽培種の携帯がきわめて異なるものがある。

人は昔から家畜にしても、植物にしても、自分たちの都合のいいものを生み出すために「かけあわせ」を行ってきた。今は科学的に遺伝子だとわかるが、昔はそんなものは分からない。しかし人はなんとなく感覚で理解していたのだろう。おとなしいヒツジとおとなしいヒツジをかけあわせ続ければ、従順なヒツジができあがっていく。なんらかのきっかけで無毒なアーモンドを見つけたら、それを栽培していくと無毒なアーモンドができあがる。おいしい食べ物はより大きくなるように、たまたま出会った大きな実のある種子を栽培し続ける。そのうち大きな実ばかりができるようになっていく。このような品種改良は意識的または無意識的に行われていき、徐々に人びとは栽培できる植物を増やしていったのだ。

ダーウィンの偉大なる著書「種の起源」は、自然淘汰の説明からはじまっていない。「種の起源」の第1章は、人為的な淘汰を通じて家畜や植物がどのように栽培されるにいたったのかの説明である。「私は園芸仕事でかなり貧しい材料から素晴らしい結果を生み出す、庭師の素晴らしい技術に目を見晴らされた。しかし、技術は単純で、最終的な結果に関する限り、ほとんんど意識されることなく生まれたものだ。それは常にいちばんよく知られている変種を栽培し、種子を植え、もし少しでもよい変種が偶然現れたら、それを選び、同様につづけることである」

第8章 リンゴのせいか、インディアンのせいか

この章は必要なのか?やや冗長な感じになっている。植物の栽培化の地域格差について肥沃三日月地帯とニューギニアとアメリカ東部の比較を試みるというもの。ただ本質的には第7章の話をかぶっているような内容が多いので、私にとってあまり興味の湧かない章となってしまった。ただ当初、著者が言った「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」ことを証明するためには必要な章だったのだろう。その証拠にこの章の終盤にはこう記載してある。

われわれは、これまでの考察を通じて、このようなちがいは、入手可能であった野生動植物の差が原因となって引き起こされたものであり、肥沃三日月地帯、ニューギニア、そして合衆国東部の人々の特性のちがいが原因でないことを理解している。


第9章 なぜシマウマは家畜にならなかったのか

家畜化できている動物はどれも似たようなものだが、家畜化できていない動物はいずれもそれぞれに家畜化できないものである。

家畜は小型から大型まで幅広いが、特に大型哺乳類の家畜は食料源としてだけでなく、移動手段や農耕の労働力になるという点では大きな意味がある。

大型草食動物の「大型」を「体重100ポンド以上」と定義すると、20世紀までに家畜化されたのは、たった14種類にすぎない。「由緒ある14種類」のうち、世界各地に広がり、地球規模で重要な存在となったのは、牛、羊、山羊、豚、馬の「メジャーな5種」である。

この家畜化された14種が生息していた地域は一様には分布していない。ユーラシア大陸では13種類が生息していた。一方で北米、オーストラリア、アフリカ大陸南部はどれひとつとして生息していない。もともとユーラシア大陸には大型の陸生哺乳類が最も多く生息しているという地理的特性がある。ただし、家畜となりうる候補の大型哺乳類に対して、実際に家畜化された率は圧倒的にユーラシア大陸が高い。

家畜化されるかされないかは人間の問題より、大型哺乳類側に問題がある。

家畜化されない要因は6つの理由が認められる。
①餌の問題
動物の血となり肉となるのは動物が消費する餌の10%。肉食動物その草食動物を食べるのでさらに効率が悪い。
②成長速度の問題
成長に時間のかかりすぎる動物は家畜化して育てる意味はあまりない。ゴリラやゾウが家畜化されない。
③繁殖上の問題
動物の中には衆人環境下でのセックスを好まないものもいる。交尾の前の複雑な求愛行動を長時間やる場合などがこれにあたる。
④気性の問題
ある程度以上の大きさの哺乳類は人を殺すことができる。シマウマの気性の荒さは家畜化に向かないものである。
⑤パニックになりやすい性格の問題
神経質なタイプの動物の飼育はむずかしい。囲いの中に入れるとパニック状態に陥りショック死してしまうか、逃げたい一心で死ぬまで柵に体当たりを繰り返すようなことがある。
⑥序列制のある集団を形成しない問題
群れをつくって集団で暮らす。集団内の個体の序列がはっきりしている。群れごとのなわばりを持たず、複数の群れが生活環境を一部重複しながら共有している。序列制がある動物は人間が頂点に立つことで集団の序列を引き継ぎ、動物たちを効率よく支配できるので、家畜化にはうってつけの動物である。

サピエンス全史の話から言えば、家畜化されない種は、種全体としての繁栄は目指せない(絶滅してしまうかもしれない)が、個の幸せという観点では守られるものでもあるので、サピエンス全史を読み終わってからは「家畜化されなくて良かったね」と言ってあげるしかない。

ユーラシア大陸の人々は、たまたま他の大陸の人びとよりも家畜化可能な大型の草食性哺乳類を数多く受け継いできた。このことは、やがてユーラシア大陸の人々を人類史上いろいろな面で有利な立場にたたせることになる。


第10章 大地の広がる方向と住民の運命

おおよそ見えてきたことがある。著者はそれぞれの地域に住む民族が例えば科学を進歩させたりさせなかったりといった差がどういう理由によるのか?という点について、「人種の優劣」ではなく「環境」にあるという位置づけてみてきている。そして、これまで農耕や家畜化などがそれぞれの地域による環境によって進んだり進まなかったりしていることを証明しようとしてきた。そしてこの章では東西に広がるユーラシア大陸と南北に広がるアメリカ大陸、アフリカ大陸の環境の差について筆を進めようとしている。農耕や家畜といったものについての差については著者が何が言いたいのか?はだいぶ予測ができるようになってきた。こうなると読書はかなり早いスピードで進んでいくものだ。

そもそも気候は南北よりも東西のほうが似ている。同じ経度であれば、緯度の違いよりも明らかに気候は近い。この論理を軸に食料伝播が東西では進み、南北では進まなかったという結論である。気候の全く違うところに、これまで品種改良を重ねてきた食料を持っていっても育たない。同様に動物も寒帯と熱帯では全く異なる。よって家畜も東西では進むが南北では伝播しづらい。

確かにそう言われれば、日本でも東北以北が蝦夷と呼ばれていた時代、その文化の違いは東西ではなく南北によって決まっていたと結論づけることはできる。

第11章 家畜がくれた死の贈り物

この章はコロナパニックが起こっている今現在、ものすごく興味のあるテーマである。

われわれのなかには、ペットの動物から病気をもらってしまう人がいる。犠牲者の数は大人より子供のほうが多いかもしれない。動物からうつる病原菌は、たんなる不快感を引き起こすたぐいのものが多い。しかし感染症の中には、天然痘、インフルエンザ、結核、マラリア、ペスト、はしか、コレラのように、非常に深刻な症状を引き起こすものもある。近代人の主要な死因に数えられるこれらの感染症は、もともと動物がかかる病気だったが、いまでは人間だけが感染して動物は感染しない。人間の死因でいちばん多いのは病死である。

当初、新型コロナウイルスはコウモリを食べて発症!と言われショックを受けた人も多かった。しかし、そもそも細菌と異なり、細胞を持たないウイルスは動物の細胞の中でしか生きることができない。だからそのあたりの路上に広がっているものではない。「動物から感染した!」といつも騒がれるが、それは至極当たり前のことを言っているにすぎない。

病気に対して、われわれ人間の立場で考え、どうしたら病原菌を退治して命を救えるかに頭をひねる。病原菌はなぜわれわれを病気にするかなどいちいち気にせず、悪い奴らはとっととやっつければいい、というのがごく一般的な考え方である。しかし敵を知らねば戦いに勝つことはできない。感染者である人間は、いわば病原菌の住みついた宿の主である。自分の宿主を死に追いやってしまう病原菌は、自分で自分の住処をうばってしまい、結局は自分で自分を殺すという自滅的な行為に走っているように思える。

ウイルスをはじめとした病原菌も動物同様、繁栄のための行動をしているにすぎない。人間が「病気」といってある症状が出ることは、病原菌にとって自分たちを広げるために進化させてきた手段の結果である。コロナウイルスで「咳」の症状がでるのは、彼らが咳によって新たに自分たちを広げることができるからである。最終的にそれで人間が死んでしまうのはそれが目的でなく、単なる副産物で、生きている間に「症状」が出ることで、有効に伝播をしていくのである。

この病原菌をやっつけるにはどうすればよいか?まずは「発熱」をすることである。病原菌によっては熱に弱いものがあるので、体温を上げることで侵入してきた菌を殺してしまうことがひとつの方法である。もうひとつは「免疫システムの動員」である。一旦感染症にかかると病原菌に対する抗体ができるので、同じ感染症にかかりにくくなる。

ところが、病原菌によっては、われわれの体の免疫防御をもってしても侵入をふせぐことができないものがある。そうした病原菌は、人間の抗体が認識する抗原と呼ばれる部分を変化させ、人間の免疫システムをだますのである。インフルエンザがしょっちゅうはやるのは、抗原の部分がちがう新種のインフルエンザウイルスが登場しつづけているせいである。

そもそも「コロナウイルス」は風邪のウイルスとして通常存在している。新しく人間に感染しやすくなるように進化して「新型」が出てくるという訳である。もし今回のコロナでワクチンをつくっても、長い目で見たらいたちごっこになるかもしれない。

疫病が大流行したときでも、その病原菌に対する遺伝子を持っている人びとは、持っていない人びとより生き残れる可能性が高い。歴史上、同じ病原菌に繰り返しさらされてきた民族は、その病原気に対する抵抗力を持った人々の割合が高い。

今回のコロナウイルスでも子供や若者は感染しない、症状がでない、軽症・・・といった感じである。そもそも、このウイルスに対する基礎的な抵抗力はすでにわれわれは持ち合わせているのだろう。

ぽつりぽつりと患者が現れるのではなく突然大流行する感染症には、共通する特徴がいくつかある。まず、感染が非常に効率的で速いため、短期間のうちに集団全体が病原菌にさらされてしまう。つぎに、これらの感染症は「進行が急性」であるーー感染者は短期間のうちに、死亡してしまうか、完全に回復してしまうかのどちらかである。そして、一度感染し、回復したものはその病原菌に対して抗体を持つようになり、それ以降のかなり長きにわたって、おそらく死ぬまで、同じ病気にかからなくなる。

新型コロナのように致死率の低い(特に若年層で)ものは一度かかったほうが結局あとが楽なのだということだ。また大流行してしまえば、感染したまま生き続けることはないので、死ぬか?抗体を持つか?の二者択一になる。今回は圧倒的に後者が多い。そして感染者の数が減ると人間の生体中でしか生きられない病原菌も死滅して、大流行も収束する。まあ、結局はこのコロナパニックも収束するのは間違いのないことである。

人間特有の病気を引き起こす病原菌には分子生物学的に近い近縁種が存在し、それらは家畜やペットだけに集団感染症を引き起こす。しかし、すべての種類の動物がこうした集団感染症にかかるわけではない。この種の病気にかかるには、人間の場合と同様、病原菌が生き延びることができる規模の集団を維持できる群居性の動物だけである。ということは、牛や豚などの群居性の動物が家畜化されたとき、そのあいだですでに集団感染症の病原菌ははびこっていたということになる。

豚コレラ、豚インフルエンザ、鳥インフルエンザ・・・身の回りの家畜からいつも感染症が発生するな~と思っていたら、それも当たり前のことなんだと理解できた。

この章はあまりにもタイムリーな話題だったため、コロナの話題にもっていってしまったが、本来の主旨にもどそう。

旧大陸かを起源とする感染症のうち、10種類以上が新大陸の人びとに感染している。しかし、新大陸からヨーロッパに伝播した致死性の感染症はおそらく一つもない。

コルテスがアステカ帝国を征服するために600人の兵士を連れていったが、人口数百万のアステカ人は天然痘の大流行で半分が死亡してしまった。一方スペイン人には何も影響していない。

これまで見てきたように家畜から感染症が出てくるとして、もともと家畜化が少なかったアメリカなどでは長い歴史の中で疫病にさらされ免疫をつけていく過程があまりなかったのかもしれない。家畜と感染症・・・これまでのストーリーがひとつにつながった著者の見事な論理展開である。

80冊読書!4冊目 銃・病原菌・鉄(上)完


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