80冊読書!2冊目サピエンス全史(下)

第12章 宗教という超人間的秩序

宗教について論じるとき、イスラエルに生まれた著者と私のような日本人の間にはものすごく大きな壁がある。多神教は理解できても一神教を理解できないのが日本人。世の中にある善と悪について一神教ではこれは大きな問題になり、多くの論争を呼ぶ。 しかし日本人である私は世の中に善と悪があることについてそれほど悩むことはない。これまで旧約聖書などを読んできたが、これからの時代において宗教への理解はグローバルな世の中で基本中の基本として押さえておくべき知識だと改めて感じる章である。

すべての人間至上主義は人間性を崇拝するが、人間性の定義に関しては定義が分かれている。人間至上主義は、3つの競合する宗派に分かれ、「人間性」の厳密な定義をめぐって争っている。今日、最も重要な人間至上主義の宗派は自由主義の人間至上主義で、この宗派は「人間性」とは個々の人間の特性であり、したがって個人の自由はこの上なく神聖であると信じている。社会主義的な人間至上主義という宗派もある。社会主義者は「人間性」は個人的でなく集合的なものだと信じている。自由主義的な人間至上主義が個々の人間にとって最大の自由を求めるのに対して、社会主義的な人間至上主義は、全人類の平等を求める。従来の一神教と現に縁を切った唯一の人間至上主義の宗派は、進化論的な人間至上主義で、その最も有名な代表がナチスだ。

この章において、自由主義、社会主義、進化論などが「宗派」と書いてあることは、この本で一貫して言っている「虚構」「神話」といったものが宗教だけでなくイデオロギー、会社の理念なども同じだということを言いたいのであろう。私の会社もかなり「理念」を前面に打ち出している。これはこれで「宗派」なのだと思うが、会社の理念は神を奉じる超人間的な秩序ではないので(もし会社の存在意義を神が定めた真理だ・・・などと言えばそれはすごいことだが)、人間至上主義の一環である。

第13章 歴史の必然と謎めいた選択

物理学や経済学と違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためでなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。

歴史好きとしては本当に素晴らしい言葉!ちなみに私の祖父は考古学者であった。もう35年も前に亡くなっているが。そのとき私は中学1年であったため、歴史を研究するということがどういうことなのか、祖父と話をする機会もなかった。今もし話ができるなら聞いてみたい。「歴史を研究することで、未来の可能性を理解することができたのか?」と。

歴史の選択は人間の利益のためになされるわけではない。歴史が歩を進めるにつれて、人類の境遇が必然的に改善されるという証拠はまったくない。人間に有益な文化は何があっても成功して広まり、それほど有益でない文化は消えるという証拠もない。勝者はいつも自分の定義が正しいと信じる。だが、なぜ勝者を信じなければならないのか?

身の回りにあることをこの視点で眺めてみると、いろいろな気づきがある。昔は普通だったが、今となっては時代錯誤のように思われるようなことも、今の目線では「善が進んだ」ように思うが、本当にそうか?は怪しい。今回、人類史・歴史を学ぼうと思ったことが、早くも2冊目にして更なるワクワクに変わってきた気がする。最初の2冊がサピエンス全史で良かったと思う。歴史をどのように眺めるべきか?という視点を早くももらった気がする。

第14章 無知の発見と近代科学の成立

社会政治的な秩序を安定させるための近代の試みはすべてこれまで、以下の非科学的方法に頼るしかなかった。そこから科学を締め出し、非科学的な絶対的心理の即して生きる。これはこれまで自由主義の人間至上主義がとってきた戦略で、この主義は、人間には特有の価値と権利があるという独断的信念に基づいて構築されている。その信念は、ホモ・サピエンスについての科学的研究の成果とは、呆れるほど共通点が少ない。

現代人が科学の成果を信頼している。しかしながら、一方で人間の権利というような概念に関して、普遍的真理であるかのように勘違いしていることを疑うことはほとんどしない。その時代に生きていてパラダイムを変えることはとても難しい。なぜならパラダイムは基本的な考え方や枠組みを共通理解している前提に立つため、他人とコミュニケーションをとるうえで、やっかいな相互理解をする必要もなく、一気に認識合わせができるという経験を誰もがしてきたからである。そもそも自分が認知している概念が、その時代のパラダイムであることを考えながら過ごすことなど稀でもある。パラダイムに逆らわずに生きていくことは楽ではあるが、私のような人間はどうしても疑ってかかってしまうことが多くあるため、この壁にぶつかってしまうようだ。

19世紀までは軍事面での革命の大多数は、テクノロジー上でなく組織上の変化の産物だった

会社はどうだろうか?テクノロジーが発達した今でも組織論は人気がある。働く人の問題はテクノロジーと同等かそれ以上の扱いを受ける。企業経営と軍事は時々同じような扱いを受けるが、やはり違うものなのだろう。ある1つのテクノロジーを1社だけが持つことは現代ではあまり考えられない。結局テクノロジーの差はすぐに埋まってしまうということなのだろう。

第15章 科学と帝国の融合

中国人やペルシア人は蒸気機関のようなテクノロジー上の発明を欠いていたわけではない。彼らに足りなかったのは、西洋で何世紀もかけて形成され成熟した価値観や神話、司法の組織、社会政治的な構造で、それらはすぐに模倣したり取り込んだりできなかった。日本が例外的に19世紀末にはすでに西洋に首尾よく追いついていたのは、日本の軍事力や、特有のテクノロジーの才のおかげではない。むしろそれは、明治時代に日本人が並外れた努力を重ね、西洋の機械や装置を採用するだけにとどまらず、社会と政治の多くの面を西洋を手本として作り直した事実を反映しているのだ。

日本人にはなじみの深い話である。文明開化は確かにテクノロジーの話がメインのように思うが、やはり社会・政治を変えたことが大きい。戦後も含め、日本人はこれが得意なのだろう。歴史上、日本は基本的に後進国であった。遠い過去は中国に対して、そして近代では西洋に対して。今の行き詰まりは日本が先進国になり、手本が見えなくなったゆえのものである可能性は高い。社会・政治を変えようにも、何を真似て変えれば良いのか?一向に答えは見当たらない。

第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

この章は経営者であれば、さまざまな箇所に目がとまり、時間のかかってしまう章である。

まずは「成長」だ。

「成長」・・・ベンチャーであれば必ず言う。ちなみに私の会社の理念にも書いてある。
原書を読んでいないので、この翻訳本にある「成長」は原書で「growth」という表記されていたのか分からない。ただ、growthといっても
・emotional growth
・economic growth
など「・・・な成長」という言葉になって初めて理解できるのではないだろうか。

会社として見たときには「成長」というと当たり前だがeconomic growthを言う。ただサピエンス全史を通して「種の繁栄と個の幸せ」の関係が成り立っていないことを前提とすると、「会社の成長」と「個人の成長」とは確実に違うものとなるだろう。

「個の幸せ」に焦点があたる今の時代において、growthの定義をしっかり定めないと、それが「会社が成長すること=経済的成長であり規模拡大」なのか?「個人の成長」を指していくのか?が分からなくなり、結果として軸がぶれてしまう可能性が高い。

信頼こそ、が世界に流通する貨幣の大部分を一手に支えている。
人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用(クレジット)」と呼ぶようになった。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らし機会が無数に開かれる。

今の資本主義社会ではこんな難しいことを考えなくても経済はまわる。自分たちもお金を借りるし、売掛金としてお金を貸すこともできる。でも普段仕事をしていて、こんな根本のことを考えることはまずない。現代社会が成り立っているベースはこの信用が当たり前となった経済である。

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与をおこなおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。個人としても王国としても、あるいは世界全体としても、10年後にはより多くの富を生み出すなど考えるのは、割の悪い賭けに思えた。

今の日本の場合、近代以前の思考回路になりはしないか?10年後の日本経済を悲観的にとらえている人間はとても多い。だとすると信用供与が成り立たないということなのだろうか?それでは未来に向けた投資が生まれないはずである。そうなると銀行がお金を貸さないはず。しかし今の日本では以前よりももっと投資は生まれているし、銀行もお金は貸してくれる。個別の投資に関しては未来の可能性を信じられるからそうなるということであろうか。ちなみ今の日本の年金制度・・・これは確実に元が取れない割の悪い賭けではあることは私でも分かる。

資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。なぜなら正義や自由やさらには幸福まで、すべてが経済成長に左右されるからだ。
自由市場資本主義は、利益が公正な方法で得られることも、公正な方法で分配されることも保証できない。それどころか、人々は利益と生産を増やすことに取りつかれ、その邪魔になりそうなものは目に入らなくなる。成長が至高の善となり、それ以外の倫理的な考慮というたがが外れると、いとも簡単に大惨事につながりうる。

起業した人間は、このことに対しておそらく最も真剣に考える人種ではないだろうか?当然のことながら「成長」は目指していく。しかしそれは何のためなのか?メンバーとは何を分かち合うのか?目の前の現実があり、思い通りにならない状況があり、成長が至高の善などと単純なことを言っていられないからである。ここに向き合える企業経営者はそれはそれで幸せなのではないだろうか。

第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和

産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は古来の3つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察であった。
国家と市場は個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは仕事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身に着けたければ、公立の学校が必要な教育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ工事は建設会社に頼めるし、銀行で住宅ローンを組むことも可能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。
何百万年もの進化の過程で、人間はコミュニティの一員として生き、考えるように設計されてきた。ところがわずか2世紀の間に、私たちは疎外された個人になった。文化の驚異的な力をこれほど明白に証明する例は、他にない。

「個人」にウエイトが移る中で本当に家族コミュニティから市場・国家に代わっていったのだろうか?現代に暮らしていてこう言われてしまうと、確かにそう思ってしまうが、感情的には「本当にそうか?」という疑問も同時に起こる。たしかに市場・国家に移った部分は多いが、今でも家族コミュニティーが担う役割は大きいと思ってしまうからである。しかしながら例えば恋愛や性生活にまで市場が世話を焼くようになったのは確かだと思う。子供の虐待に国家が介入するのはとても理解できる。だとするなら今は家族が担っているような感情面でのことも、ますます市場が担っていくようになるのだろうか?現代人の感覚からすると空恐ろしい感じではある。


後半に書いてある現代における「戦争」の減少が戦争の代償が劇的に大きくなったことというのは納得がいく。核兵器によって、超大国間の戦争は集団自殺に等しい。核の抑止力はまぎれもない事実である。ここで書いてある「戦争の代償」と「戦争で得られる利益」の対比は非常に面白い。

戦争の代償が急騰する一方で、戦争で得られる利益は減少した。歴史の大半を通じて、敵の領土を略奪したり併合したりすることで、政体は富を手に入れられた。そうした富の大部分は、畑や家畜、奴隷、金などが占めていたので、略奪や接収は用意だった。今日では、富は主に、人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織からなる。その結果、そうした富は自国の領土に併合したりするのは困難になっている。

私の会社では物質的な資産はほとんどない。会社の価値はどこにあるか?確かに技術やノウハウといったもので、人によるところが大きい。これを奪い取るとなるとM&Aになる。しかも友好的でないとこの価値は活用できないだろう。戦争という最後の一線を越えることが難しくなった現代ではあるが、それでも人間は「富」を求める。それが国家間となったときにどう動くのか?アメリカと中国の戦いはもはや領土の問題ではない。しかし彼らは疑似戦争をしている。武力は片手に持ってはいるが、これが行使されることはないだろう。ではもう一方の手はどうか?武力を使った戦争ではなく、「富」を得るための行動を戦争と定義すれば、これからも数多くの戦争は起きていくだろう。

第19章 文明は人間を幸福にしたのか

純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。人類は、目的を持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いてくだろう。
人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想にとりつかれているのだ。
幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされているかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要でないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。古代の狩猟採取民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するのだろうか?

幸福論は今のところ答えは存在しない。客観的な研究もいろんなところで進められているが、そもそもの「問い」が間違えている可能性もある。幸せだと感じる瞬間があることは事実だが、振り返って幸せか?と問われたら、誰もが考えて答えるだろう。生物種として人類にとって幸福などはそもそも生きていることと関係がないことは事実だろう。虚構を信じることができるサピエンスだからこそ、人生の意義というような妄想にもとりつかれる。この本を通じて書いてあることを前提とするならば、幸福を追い求めることに躍起になるのは、サピエンスとして進化してきた過程で、認知革命が起きた瞬間からの宿命であったように思う。

第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ

未来は誰にも予測できない。人類がDNAを触れて新しい人間を生み出したり、コンピューターをより進化させることで人間と同じレベルの思考を持ったものを作り出せるようになったとして、その先には何が待っているのか?今とは異なる未来があることは間違いないが、今の段階で予測することにあまり意味はないだろう。どちらにしても未来予測は外れるものだ。著者が描く「私たちの後継者は、神のような存在になる」ことがどういうことかは分からない。

13章で著者が述べたように
「物理学や経済学と違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためでなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。」
ということなのである。

サピエンス全史を通して人類史を学んだ。それによって得られることは、結局、私たちの未来には「想像しているよりもずっと多くの可能性があること」なのではないだろうか。

80冊読書!2冊目 サピエエンス全史(下)完


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