80冊読書!8冊目 世界は贈与でできている

この本は「贈与」という言葉が題名に入っているが、「哲学」の本らしい。

本書では、僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことができないものおよびその移動を「贈与」と呼ぶことにします。
家族や友人、恋人など、僕らにとって大切な人との関係性もまた、「お金で買えないもの」です。そして、家族や友人、恋人との関係で悩んだことのない人は少ないはずです。なぜそのようなことが起こるのか。そこにはお金で買えないもの=贈与の原理が働いているからです。贈与の原理が分かっていないからこそ、僕らは大切な人たちとの関係を見誤るのです。

本書の導入で「哲学は人類の幸福な生存のための概念づくりをすること」という哲学者、戸田山和久さんの言葉を紹介している。そして言葉や概念は幸福に生きていくためのテクノロジーだと言っている。

この本では「贈与の原理」と「言語の本質を明らかにしたウィトゲンショタイン哲学」の2つを理解することで、この世界の成り立ちを知ることが目的となっている。

第1章 What Money Can't Buy - 「お金で買えないもの」の正体

なぜ僕ら人間は他者と協力し合い、助け合うのか。どうして一人では生きていけなくなったのか。

この問いに対して「サピエンス全史」での見解を持ち出して、本はスタートする。

人間は子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会的絆を結べる者を優遇した。
(サピエンス全史)

本書では冒頭で「お金で買えないもの」の移動を「贈与」と定義したが、それは人類の黎明期から始まっているという。身体的拡張ではなく、社会的能力が人類にとって重要だったと。

プレゼントは手渡された瞬間に「モノ」がモノでなくなるらしい。どういうことだろう?自分で買った場合はモノだが、誰かからもらうと、それはモノでなく、この世界にたった一つしかない特別な存在になるのだと。

僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。

少し、身体が熱くなってきた。なんだろう。この言葉だけでも「確かに~」と少し理解できる自分がいる。もしかしたらこの本は素晴らしい本かもしれない。

今回、6年ぶりに本社事務所を移転した。多くの友人・知人からお祝いのお花をいただくことになった。もう長らく会っていない方からもいただいた。移転後、夜、一人事務所に残りながら、じっくりそのいただいた花を眺めていたら、心の底から熱いものが湧き上がってきた。思えば、いただいたものは「花」ではあるが、花ではないのだ。熱いものが湧き上がったのは「気持ち」をいただいたからなのだろう。

逆に自分は贈り物をするときに、どれだけ「気持ち」を込められていたのだろう?少し恥ずかしくなってきた。

「無償の愛」という言葉がある。親が子育てをするときによく使われる言葉だ。筆者はこれは誤解だという。無償の愛にはプレヒストリーがあり、自分の親からの愛を受け取ってしまった「負債感」に突き動かされるもので、返礼の相手が異なる贈与ということになる。だからいつも不安がつきまとう。「私の愛は正しかったのか?」「私はその贈与を正しく自分の子に渡せたのか?」

贈与は対流する。映画「ペイ・フォワード」を題材に贈与について書かれているが、それに絡めてキリスト教神学の「不動の動者」の概念を説明している。世界の出来事にはそれを発生させた原因がある。因果連鎖をさかのぼると、どこかで一切の原因を持たずに出来事を引き起こす究極的な原因が存在することになる。それが神であるーーと。俗人である僕らは、受け取った贈与の負い目を引き受け、別の人への返礼として贈与をつなぐ。贈与は見返りを求めない。対価を求める場合は「偽善」となってしまう。

第1章を読んだだけでもお腹いっぱいになってしまう本である。「ペイ・フォワード」のくだりは鳥肌が立ってしまった。ちょっとヤバい本に手を出してしまったかもしれない。


第2章 ギブ&テイクの限界点

ビジネスの文脈では、相手に何かをしてほしかったら、対価を差し出すしかありません。相手が認める対価を持ち合わせていなかったり、「借りを返す」見込みが薄い場合などでは、協力や援助をとりつけることは難しくなります。だから大人になると、ギブ&テイクの関係、ウィンウィンの関係以外のつながりを持つことが難しくなるのです。
「助けてあげる。で、あなたは私に何をしてくれるの?」これがギブ&テイクの論理を生きる人間のドグマです。要するに「割に合うか合わないか」で物事を判断する態度です。割に合うなら助けるし、仲良くする。割に合わないなら縁を切る。他人を「手段」として遇する態度です。

筆者はこれを「交換の論理」と呼んでいる。この論理を生きている場合、自分は利益という目的に対する手段でしかないから、信頼ができなくなるということになる。贈与がなくなった世界には信頼関係が存在しないと断言しています。

そうして、交換するものを持たなくなったときにはつながりがなくなる。そのつながりが「社会とのつながり」だった場合は「死ぬしかない」という極論にまでなっていくのだという。

一方で本当につながりが必要なのは交換することができなくなったときであり、「助けて」もらう必要がある。

誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。

この章で書いてある内容としては、社会のつながりが面倒になり、自由になるようになってきた。そしてつながりの代わりに保険や貯蓄といった商品におきかえていこうとしてきたと。なんだか聞いたことのある内容だと思ったら、やっぱり「サピエンス全史」の内容だった。

私が以前に書いたnoteの内容を抜粋する。

(サピエンス全史)
「産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は古来の3つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察であった。」
「国家と市場は個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは仕事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身に着けたければ、公立の学校が必要な教育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ工事は建設会社に頼めるし、銀行で住宅ローンを組むことも可能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。・・・」
「何百万年もの進化の過程で、人間はコミュニティの一員として生き、考えるように設計されてきた。ところがわずか2世紀の間に、私たちは疎外された個人になった。文化の驚異的な力をこれほど明白に証明する例は、他にない」

その時の私の感想はこう書いてある。

「個人」にウエイトが移る中で本当に家族コミュニティから市場・国家に代わっていったのだろうか?現代に暮らしていてこう言われてしまうと、確かにそう思ってしまうが、感情的には「本当にそうか?」という疑問も同時に起こる。たしかに市場・国家に移った部分は多いが、今でも家族コミュニティーが担う役割は大きいと思ってしまうからである。しかしながら例えば恋愛や性生活にまで市場が世話を焼くようになったのは確かだと思う。子供の虐待に国家が介入するのはとても理解できる。だとするなら今は家族が担っているような感情面でのことも、ますます市場が担っていくようになるのだろうか?現代人の感覚からすると空恐ろしい感じではある。


これは資本主義市場経済においては「贈与の原理」は「交換の論理」に置き換わっていくことになるということなのだろうか?まさかサピエンス全史とこんなつながり方をするとは思いもよらなかった。

普段何気なく生活をしている中で、私たちは社会との関わりを面倒だと思い、自由を謳歌したいとあらゆるつながりを商品として購入するようになってきている。この本を読みながら、サピエンス全史を読んだとき以上の恐怖心を感じている。この目線で一度自分の生活を見直さなければならない。


第3章 贈与が「呪い」になるとき

贈与には人と人を結びつける力があるがゆえに、その力はときとして私を、そして他者を縛りつける力へと転化します。贈与は時として「呪い」として機能する。

ここでは母親が息子を本当は愛していないのに、愛しているように信じ込ませ、お返しに母親を愛し大切にするように強要する話が書かれているが、似たことは職場でも起こりうる話だと感じる。ひとつ疑問を感じるのはこのことは意識的に行うときだけに起こりうるのだろうか?ということである。自分自身が職場でこれをやっていないと言いきれるのだろうか?

贈与者は名乗ってはいけません。名乗ってしまったらお返しがきてしまいます。贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。しかしずっと気づかれることのない贈与はそもそも贈与として存在しません。
あれば贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。

なるほど。そういうことか。贈与とな何か?が少し見えてきた気がする。


第4章 サンタクロースの正体

贈与は合理的であってはならない。

認知症の母親の徘徊を例に不合理な行動が実は贈与と絡んでいたことが紹介されている。贈与には冗長さが含まれるのだという。敬意を表そうとすると言葉は長くなる。冗長=無駄ということだ。無駄にコストをかけるからこそ敬意につながっていく。こうやって教えられると、ちゃんと敬語を使わなければならないと思ってしまう。単に「敬語を使いなさい」と言われるより、こういうことを知ると積極的に使いたくなるものだ。

贈与者は名乗ってはならない。贈与は手渡す瞬間に気づかれてはならない。名乗ってしまったら、返礼が可能になり、交換に終わってしまう。あるいは、返礼ができない場合、呪いにかかり。自由を奪われてしまう。名乗らない贈与者として世界的に有名な人物が一人います。サンタクロースです。

親は子供にプレゼントをするとき、自分でなくサンタクロースに託す。親からの贈与ということに気づかれてはいけない。だからサンタクロースなどいないと知ったときに、子供であることをやめるのだという。サンタクロースをそんな捉え方をするのか!という驚きである。一方、贈与を受けた人はその贈与に気づかないように渡されているだけに、見落としてしまう可能性がある。

だとしたら、僕らにできることは「届いていた手紙を読み返すこと」ではないでしょうか。

贈与論はコミュニケーション論だと筆者は持論を展開していく。コミュニケーションは言葉を介して行われる。言葉は意味を持つ。そうしてさらに贈与論は展開していく。この本のすごいところはどんどん展開が広がっていくところだ。ひとつひとつの内容は納得ができるが、そもそもどこが出発点だったかを忘れてしまうくらい、論の展開の進みが早い。

第5章 僕らは言語ゲームを生きている

最初に「哲学の本らしい」と書いたが、第4章あたりから、一気に難しくなってきた。言語ゲームの話も言っていることはなんとなく分かるが、直観的に理解できているか?と言われると、それはない。「ん?」と思っては少し戻って読んでみることも多々出てきた。

「言葉の意味の理解は他者とのコミュニケーションが取れていること、それ自体だ」ということは話の筋で理解できた。この話は例えば「痛み」という言葉を自分と他人で「同じ痛み」を共有できるか?というとそんなものは原理的に不可能であるということにつながっていく。だからこそ「痛い」という言葉はそれそのものに意味があるのではなく、ウィトゲンンシュタインの言葉にある「思考と生活の流れの中でのみ言葉は意味を持つ」ということに帰結していく。

他者のことを理解できないのは、その心の内側が分からないからではありません。その他者が営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないから理解できないと感じるのです。

これは結局、その人のバックグラウンドを知るかどうかにかかっているのではないだろうか?徘徊する母親の話において、昔々息子を16時に毎日迎えに行っていたという話を聞いて、初めて理解できるようになったことも、バックグラウンドを知ったからとも言えると思う。

これは私の会社で理念に掲げていることにつながる。ただこの筆者ほど難しい言葉で紡がなくても、もっと簡単に理解をしてもらえると思う。


第6章 「常識を疑え」を疑え

この章の始まりに書いてある「3+5=8」を疑う話は、パラダイムの話に似ている。「常識を疑え」が言語ゲーム全体の破壊につながるということは極論かもしれないが、例えば「パラダイムシフト」ということが良きものとされ、パラダイムに囚われていることが問題だというような短絡的な話と似ているように思う。私たちはパラダイムがあるからこそ、コミュニケーションを長々としなくても理解しあえるのである。この大前提を崩して、パラダイムが悪のようになってしまうとコミュニケーションは成り立たない。それと同様に常識を疑ってしまうと言語ゲームが成り立たなくなるのではないだろうか。

と思って、読み進めると、まさにパラダイムの話が書いてあるではないか!「科学的常識の総体をパラダイムと呼んだ」・・・まさに私の理解とつながっていることを筆者は言っていると感じる。

「常識は科学的探究を生む」の項で書かれている内容は、とても好きな話である。世の中をあるがままに見る、本質的にものごとを考える、合理的に考える・・・このような行為をしていくことで、あるべき姿は見えてくる。常にそうありたいと思いながらも、なかなか人間は何かに囚われてしまう生き物らしい。


第7章 世界と出会い直すための「逸脱的思考」

この章は急に読みやすくなった。テルマエ・ロマエを例にSFの意味、そして現代社会は歴史の過程で、誰かが生み出してきたものを気づかぬうちに受け取っていた贈与であるとの認識を示している。

現代社会に生きる僕らは、何かが「無い」ことには気づくことができますが、何かが「ある」ことには気づけません。

「失って初めて分かる」という言葉があるが、そういうことなのだろう。現代社会では、それが当たり前であり、別に「ありがたい」と思うことなどないものが、実はとてもありがたい贈与なのだ。「世界と出会い直す」というこの章の題名につながる気づきである。


第8章 アンサング・ヒーローが支える日常

我々は日常にあるものを当たり前としてとらえている。それに変化が起きた場合、放っておいてもいずれ元にもどると思っている。しかし「自然に」戻るのではなく、「誰かが」戻しているものなのである。「誰かが」戻してくれなければ、日常は果てしなく崩壊していく。そのことを知ると、今ある日常は単なる偶然でしかないということに思い至る。この「誰か」はアンサング・ヒーローであり、評価も褒められもしない人だという。

アンサング・ヒーローは、想像力を持つ人にしか見えません。

世の中はさまざまな厄災が絶え間なくおきている。そしてそれを知らない誰かが防ぎ続けてくれている。

僕らは「サンタクロースなんかいない」と知ったとき、子供であることをやめる。そして「この世界には無数のアンサング・ヒーローがいたのだ」と気づいたとき、僕らは大人になる。

これはいい言葉だ。第4章で出てきたサンタクロース。それは気づかれないように親が隠した愛という贈与であった。しかし、大人になったからといって贈与を受けていないわけではない。アンサング・ヒーローから贈与を受けているのだ!

第9章 贈与のメッセンジャー

いよいよこの本も大詰めである。

この章では「共有」という言葉がでてきる。これも私の会社にある理念に数多くでてくる言葉である。コミュニケーションの原語はラテン語のコミュニカーレと言われている。コミュニカーレは「共有する」という意味である。だからこそ私は共有するという思想を持ったコミュニケーションが大事なのだと考えている。第4章で筆者は「贈与論はコミュニケーション論である」と言った。そしてそこに「共有」という言葉が出てくる。贈与・コミュニケーション・共有。。。私の思考の深い部分は実は贈与の考え方なのか?

「贈与は市場経済の「すきま」にある」

この章の途中に出てくるこの言葉は、もはや先を読まなくても何が言いたいかは分かってきた。市場経済に生きる我々は単に「交換」だけに生きているわけではないのだ。それはたとえ企業が行う事業であってもそうなのだと思う。私が会社をやっていて、本当に「交換」のみに事業を営んでいるのかと言われると「否」である。そこには社会に対して何かを為したいという夢や想いがある。ここまで読み進めてくるとなんとも経営者に勇気を与えてくれる本である。

この章では歴史を学ぶ大切さを筆者は述べている。「サピエンス全史」「銃・病原菌・鉄」の2冊は固有名詞をあげられている。私がこの80冊読書のスタートで読んだ本である。

目的はあくまでもパスをつなぐ使命を果たすこと

私が最初に働いた会社の上司が、後にその会社の経営者になった際に語ってくれた言葉に「理念をそのまま次代に渡すこと」というものがある。まさに自身の使命を果たしている素晴らしい方である。


最初この本を読み始めたときに「僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです」という言葉で身体が熱くなった。そして、かなり哲学的な内容に深く入り込んだのちに、グッと身近なことに戻ってきて、自分の身の回りに「贈与」があふれていることに気づかされた。そして、実は自分自身がその「贈与」を行う当事者であること、そしてそこに使命があることに結論づけられた。読み終わっての爽快感を感じるということは、この本が私にとって本当に素晴らしいものであったということだろう。

著者の近内悠太さんに感謝!なんとまだ30代半ば!

80冊読書!8冊目 世界は贈与でできている 完


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