「低学力は見下されて当然」と言い張る人こそ、見下されて当然である

低学力は努力を怠ったから見下されて当然」という意見に対して、ネットで議論になっているらしい。曰く、

<低学歴って見下されて当然ですよね? だって、低学歴の人は学生時代に努力を怠った人たちなんだから。〉

 賛成する人も反対する人もいるだろうが、はっきりしていることが1つある。

「低学力は努力を怠ったから見下されて当然」と言い張る人こそ、見下されて当然ということである。

理由1.学力のみが、仕事力の唯一の指標ではない

 低学力は努力を怠ったから見下されて当然と言い張る人は、学力のみが仕事力を表す唯一の指標だと考えてしまっている。

 だが、学力が、仕事力の唯一の指標ではない。

 仕事をする力とは、学力の高さだけではない。コミュニケーション力や人間力も関係する。

 コミュニケーション力は、学力とは無関係にどういう人間関係でどういうコミニュケーションを磨いてきたかが左右する。そして、学力があれば、コミュニケーション力も伴うわけではない。

 低学力でも、コミュニケーション能力が高いということ、人間力が高いということは充分にあるのである。

 ところがそういう事実をまったく考慮せず、「学力の低い人は努力してこなかったから馬鹿にされて当然」と言い張る。

 この、見識と人間力の低さよ。

 こういう人は、馬鹿にされても仕方がないし、むしろ、積極的に馬鹿にして鼻っ柱を折り、人間性を叩き直してやるべきである。

 ちなみに「積極的に馬鹿にする」とは、「おまえ、馬鹿だろ」とはっきり言ってやることである。

理由2.学力のある人は皆仕事ができて、学力のない人は皆仕事ができないという間違った前提に基づいている

 学力が高いと、こういうことが多い。学力が低いと、こういうことが多い。そういう言い方はできる。つまり、そういう傾向があるという指摘はできる。

 だが、傾向は傾向である。あてはまらない人は必ずいる。にもかかわらず、全員がそうであるかのように決めつけて「学力の低い人は努力してこなかったから馬鹿にされて当然」と言い張る。

 なんとも薄っぺらい知性よ。

 こういう人は、馬鹿にされても仕方がないし、むしろ、積極的に馬鹿にして鼻っ柱を折り、頭の悪さを叩き直してやるべきである。

 学力が高ければ、物事をきっちりとやる力は期待されやすくなるが、必ずそうなるわけではない。学力の高い大学に通う学生でも、一定の比率で馬鹿が存在する。うちの大学(旧帝大系)にもいた(笑)。もちろん、東大京大にもいる。学力の高いところにも馬鹿がいるのは、学力の高い大学出身の者からすれば、恐らく常識である。

理由3.学力には活字耐性が必要なので、努力だけで達成されるものではない

 学力が高い、すなわち勉強ができるためには、活字耐性がなければならない。元々の地頭がよくても、活字耐性がないと勉強には向かない。結果、学力は低いということになる。

 そういう人に対して、「努力してこなかったから馬鹿にされても当然」と言い張るのだろうか? なんという、人間に対する知識のなさ、洞察の甘さ、薄っぺらさ。こういう知見の浅い人間は、馬鹿にされて当然だし、馬鹿にして鼻っ柱を折り、知性を叩き直してやるべきである。

理由4.低学力の人は馬鹿にされて当然と考える人を、積極的に助けようとか積極的に慕おうとかリーダーと仰ごうなんて人はいない

 低い学力の人を、自分の方が学力が高いからという、たった1つだけの理由で、それも学生の頃のふるまいだけで他人を馬鹿にするような人に、誰が集まるのか。誰が助けたいと思うのか。誰がリーダーとしてついていこうと思うのか。こういう人は、いずれ集団から総スカンをされて惨めな人生を送ることになる。 

 このように人間性のレベルが底辺の人間は、馬鹿にされて当然だし、馬鹿にして鼻っ柱を折り、人間性を叩き直してやるべきである。そうしないと、気持ちよく暮らしている集団の中に低レベルが交じることで、果てし無く不愉快な思いをすることになる。

 以上4つの理由により、「学力の低い人は努力しなかったのだから馬鹿にされて当然である」と言い張るような人は、馬鹿にされて当然だし、積極的に馬鹿にして叩き直してやるべきである。

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