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なぜクールで自立したヒロインが減ってロリや幼女のヒロインが増えたのか

質問箱・クールで自立したヒロイン像が少なくなってロリや幼女姿のヒロインが多いのはなぜ?

非常に素敵な質問をありがとうございます。素敵な質問なのにずいぶん亀レスになってしまって申し訳ない……! ずっと、がっつりお答えしようと思っていました。

商業作品をベースに話をします。

基本的に受け手は、自分が望んでいるものや求めているものが描かれている作品を求めます。自分が望んでも求めてもいないものが描かれている作品はを求めません。

そして「多くの人が求めるものや望んでいるもの」は、時代によって変わります。時代が変わると経済的状況や社会的状況が変わるため、「多くの人が求めるものや望んでいるもの」に変化が生じるのです。

受け手は、自分が望んでいるものや求めるものが描かれている作品を求めます

多くの作品で「あるもの」が描かれているのなら、それが「今の受け手」に望まれているということです。そして逆に「あるもの」が描かれるのが少なくなっていったのなら、それが「今の受け手」には望まれなくなったということです。

同語反復的な言い方になりますが、大衆向けの作品というのは、「大衆に向けられた」作品なんです。つまり、受け手の望みや要求がベースなんです。書き手の憧れがベースではないんです。書き手がどんなに「あるもの」に対して憧れたとしても、その「あるもの」を受け手が望んでいないのならば、「あるもの」を盛り込むのは難しくなります。結果、「あるもの」を盛り込んだ作品は淘汰されて少なくなっていきます。

受け手たちが望んでいるものや求めているものが描かれていなくて、望んでも欲してもいないものが描かれている作品を、「多くの受け手たち」が欲すると思いますか?

NOです。

受け手たちは自分たちが望んでいるもの、求めているものが描かれている作品を求めます。望んでいるものや求めているもののパイ自体が非常に大きい(求める人の数が多い)場合、大きな大衆性を獲得します。逆にパイが小さい(求める人の数が少ない)場合、淘汰されてなくなっていく可能性が高くなります。そして大きなパイは、時代によって変わります

モーレツサラリーマンの姿が多くの人に求められている時には、モーレツサラリーマンを主人公にした作品は多くなりました。でも、モーレツサラリーマンの姿が求められなくなれば、モーレツサラリーマンを主人公にした作品は減っていきます。たとえば、今の時代のようにね。

かつての時代は、がんばって働けばそれだけの実入りが保証される社会でした。働けばその先には出世があり、給料アップもありました。でも、ブラック企業が蔓延する今の社会では、どんなに働いても給料は変わらず、ただ会社のトップに搾取されるだけ、という構図が出現しています。すべての会社がそうだというわけではありませんが、思い切りがんばればがんばるだけいい鴨にされる状況が出現しています。そういう、働き手にとって夢のない状況では、80年代のようにモーレツサラリーマンの姿が求められるということはありません。逆にモーレツサラリーマンの姿は忌避されるでしょう。

クールで自立したヒロイン像も同じです。

クールで自立したヒロイン像が多く求められている時代ならば、作品の中でクールで自立したヒロイン像を見ることは多くなるでしょう。しかし、クールで自立したヒロイン像が求められなくなってきた時代ならば、作品で見かけることは少なくなるでしょう。そこに作者の憧れは関係ありません。「早く大人になりたい」とか「大人に対する憧れ」が作者にあったかどうかは関係ありません。

読者が求めていれば、多くの作品に描かれます。求められなくなれば、描かれる作品は少なくなります

なぜクールで自立したヒロイン像は少なくなったのか。ぼくが注目しているのは、他者承認(他人からの承認)の状況です。どんなふうに他人からアイデンティファイされているかですね。

ぼくは田んぼを切り開いて造成した住宅団地で育ちましたが、そこには地域の人の眼差しがありました。地区の人同士の催しが色々とあって、そのおかげでお互い顔見知りになっていて、学校から帰ってくれば、地区の大人たちが「お帰り」と言ってくれて、ぼくも「ただいま」と答えていました。ある意味、地域的な他者承認です。親から受ける他者承認に比べればとても小さな他者承認ですが、この地域的な他者承認が小学生の頃からありました。

けれども、90年代以降、そういう地域的な他者承認は減っていったんじゃないかと推測しています。そしてその減少の影響は少なからずあったんじゃないか、と。メインの原因ではないのでしょうが。

また、ぼくの時代には、まだ同学年的な女性が男性をリスペクトしてくれる時代でした。同学年的というのは、同級生だけでなくて1つ下とか1つ上とか、「だいたい同じぐらいの年頃」という意味です。同学年的な女性や同級生の女性は、男子に対して頭の中では「このガキ」と思っていたと思いますが、形式的にはリスペクトしてくれていました。男子に対して一歩引く形で、男子を立ててくれていた時代だったんですね。同級生女子からの攻撃性は、緊急事以外味わうことがなかった時代でした。

「男を立てる」「男をリスペクトする」というものを当たり前のものとして経験したのは、古い世代の特徴です。1970年以前の世代の特徴ですね(75年以前の特徴かもしれないけど)。60年代生まれの世代も50年代生まれの世代も持っています。

でも、男女平等が叫ばれてそれが学校教育に浸透していく中、同学年的男子に対するリスペクトがどんどん薄れていきます。2000年頃に知り合った男子高校生は、同級生の女子が怖いと言っていました。同級生の女子が同級生の男子をぱしりに使っていたらしいんですね。もうこの時点で、同学年的男子に対するリスペクトがかなり低くなっていたのだろうと思います。むしろリスペクトがない状況、ある意味、同学年男子に対して男性的尊厳を認めず攻撃性を向ける状況になっていたのだろうと思います。

地域的な他者承認があり、女性からのリスペクトもあった70年代、80年代。

対して、地域的な他者承認が少なくなり、女性からのリスペクトが激減し、同級生女性からの否定と攻撃性が増した90年代以降――。

リスペクトとは、ある意味他者承認です。

他者承認が充分になされていると、アイデンティティは安定し、自立へと向かいます。けれども他者承認が不足してしまうと、真っ先に他者承認を求めてしまうのです。自立よりも他者承認、他人に認められることが求められてしまうのです。

自立したクールなヒロイン像は、他者承認がなされて自立を理想として描くことができた人たちがたくさん秋葉系のファンだった時代に求められたのだろうと思います。

けれども、他者承認が不足している人たちがたくさん秋葉系のファンになっていった時代では、自立したクールなヒロイン像は求められなくなっていった。同学年の女性が自分たち男性をリスペクトしない――むしろdisる、男性的尊厳を否定する――ゆえに、攻撃性を見せず尊厳を否定しないヒロインが、どんどん求められるようになっていった。

ロリという幼い姿、幼女という幼い姿は、男性への攻撃性に結びつきません。むしろ、攻撃しない姿としてイメージされます。それゆえに、ロリや幼女のヒロインが増えた、あなたが「二十代や三十代でも何処か幼い雰囲気のものが多い」という状況が生まれた。

そのように感じます。

昨日、『監視資本主義』という本を読み切ったのですが、思春期が今と昔ではずれているという指摘がありました。かつては思春期といえば十代だった。でも、今は20代も思春期に入っていると。

『監視資本主義』はアメリカの話をしていますが、日本でも同じように捉えられるかもしれません。

80年代の思春期は、地域からの他者承認があり、なおかつ同学年的女性からのリスペクト(形式的な他者承認)があった。同学年女性からの尊厳的否定はなかった。そういう状況で現れたのが、クールで自立したヒロイン像だった。

でも、今の思春期は十代から二十代までと長い。さらに、地域からの他者承認は昔より減り、さらに同学年的女性からのリスペクト(他者承認)はほぼない状態になっている。同学年的女性からの尊厳の否定の方が多く、同学年的女性からの攻撃性は高まっている。

この状況では、クールで自立したヒロインが多く見られるという状況にはならないでしょう。むしろ、攻撃しないヒロイン像が求められるようになるでしょう。そしてその攻撃しないヒロイン像の典型例こそ、幼女でありロリなのだろうと思います。

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