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書くこと再考

書くことは自分の内面の吐露であり沸き上がってきたものを外へ出すものだとばかり思っていた。あるいは書くことで自分の意思なり目標を明確にして意識化させるためのツール。はたまた技術を積み上げるための修練。

年末も押し迫り、逃げのように毎日書いていてどうもそうばかりでないことに気づいた。

書くことは自分の内部と繋がりを持つための信号のようなものだ。日常やら慣習やらなんやらの外界に向けていた目を内面に向け奥底で眠りこけているものを揺すり起こすための信号。

内面など意識的に見なくても表出しなくても良いものだと思う。普段は無意識のうちに表に出てまた素知らぬうちに深く籠る。それらは意識されたものではない。

何かを表現したいとか書き表したいと思うものは積み重なって出てくるものとばかり思っていたが、内面をノックし続けていると思いもよらぬものが出てくることがある。普段はそれは無いものだと思い込んでいる。無いと思っていたものが実はある。毎日書いている人はそれを知っているのかもしれない。

毎日毎時間することなすこと意識的に過ごしていたらしんどすぎる。だからほとんどは無意識に行っているのだけれど、知らず知らず溜まっていくものがある。それを掘り起こす作業が書くことであるのかもしれない。

言葉で何かを表現したいと思ったら書く作業は必須だ。そこまで意識化したくないと思うこともある。意識化は苦痛だ。

それでも書くのは何故なのだろう。その答えをこれから探っていくことが自分の課題なのだろう。

とまあ、とりとめもなく書いてしまいましたが、年末の作業が終わらないので逃げています。ちゃんとやらなきゃなぁ。ではまた。


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