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結局のところ、青春ってなに?

漫画や小説にある、いわゆる青春、アオハル。
それはなんなのかと聞かれたら、過ぎ去ってみなければ分からない、と答える他ない。

その人それぞれの青春があるし、期間もまちまち。私の場合、12歳から22歳までは確実に青春だったが、もう少し期間を伸ばして、11歳から25歳と答えても間違いでは無いと思う。
とにかく人それぞれ青春は異なるので、青春してるとかしてない等々で悩む必要はないだろう。
というか、そんな悩みがある時点で青春なので、色々楽しみつつ悩みつつ、なるべくなら楽しい日々を送れたら良いというのが、もうオバサンになってしまった人間からの願いだ。

さて最近、私はこんな文章を書いた。

いつかnoteにするか何とかしようと思い、かなり前に書いた文章で、今開催中のコンテストに応募するに当たって、かなり文章を削り作り直したものだ。
私は出自を一切知られたくない人間のため、様々な情報を混ぜ込みほぼ架空の土地に仕立てたが、これは数十年前のほぼ実話である。
今思えば、あの頃にはもうすでに昭和という空気感がなりをひそめていたというのに、振り返ってみればなんとも懐かしい匂いがする。
それを今風に言えば、エモいという奴なのだろうか?

軽トラの下りは、やはり昭和感がありましたし、なにより茶畑と自転車がよかった。
あのころ、中学生のほとんどは携帯なんて持ってなかったから、一旦家を出たら誰とも連絡をとらずに、ひたすら目の前の物事に没頭するしかなかったんですよ。そしてどうしても困ったら公衆電話。テレホンカードも現役でした。

青春と言ったら恋と部活、というのが私の勝手なイメージですが、実際の青春はもっと泥臭い気がします。
あのガチの暴力耽溺教師は実在しましたし、田舎では小暴力教師なんてわんさかいました。基本的に体育教師に多いかな。あと暴言教師も沢山いて、ネチネチ系おばさん教師は未だ不動の存在ですよね。そういうもの含めて青春でした。

例えば。先生がいて生徒がいて、なんだかんだで安全な場所があって、初めて青春というものが出来上がるのだと思います。そういう場が無ければ青春は存在せず、青春できた大人達はそれに感謝しなくてはいけない。
余談ですが、今思い出しても胸糞悪い生徒イジメが大好きな国語教師は、今では地域の教育関連のお偉いさん。知った時はそりゃあびっくりしましたよ。噂ではそのイジメが祟って職員から総スカン食らったにも関わらず、しれっと偉くなっているんだから。
でも世の中そんなもんです。ハイ。

世の中そんなもん、と思えた時点でもう青春は終わったんだなとつくづく思う。
リーマンショックに大地震、さらなる増税に不景気、そしてコロナ。この10年でびっくりするほど日本の環境は変わっていて、余裕のなさとネット環境の網の細かさも相まって、社会はどんどんせかせかと早く動くようになったと思う。
だからあの頃と比べると、そんなもんこんなもんの世の中も、意外と変わりやすくなった気がするんですよね。
そこだけに望みを見出して、オバサン頑張ってる。

恋も甘酸っぱさも、切なさもなにもない話だけど、確かにこの泥臭い混沌こそが青春だった。
何も起きなくても、何かが起こった気がした日常。それこそが若さだったと思う。
そんな訳で、本来の、文章削ってない方を大公開。多少2000文字のやつより濃いめになっております。

ただスピードだけが速くて、坂道を転がり落ちるようなドタバタとした毎日。
ただそれだけが青春の証で、もう口すらも聞かなくなり互いに会いたくもない同級生達との対比が、それをより青春たらしめたのだと感じた。


青春の日常。

私の中学校から自転車を勢いづけて飛ばして30分もすると茶畑がある。
全国規模ではおそらく全くと言ってよいほど知名度がないが、そのあたりには良質な茶葉が取れる事で有名だった。
街中には、お茶の町!という旗もたっていたくらいなので、町としては知名度をガンガン上げていきたいのだろう。

時は20年前に遡る。平成の中ごろというのに、便所の下駄で生徒を殴りつけ、気に入らない生徒は授業中に立たせたあと、自身の気が済んだら座らせるという行為に耽溺した教師がいた。
その教師の出身地こそが茶畑のある町であり、その教師のすすめで茶摘みに行く事になった。
目的はただ一つ、内申点だ。

柔らかい新芽のみを摘むよう教えられ、ツヤツヤしたその小さめで柔らかな葉を一心不乱に摘んでゆく…とはいかなかった。
一緒にやってきた友人Aが、自身の両親の性生活を奔放に暴露し続けたのだ。
そしてそれを囃し立てる友人B。
そのあまりの下品さに、最初はお茶だけにちゃちゃを入れにきたオッサンまでも、最終的にはなにも言わなくなった気がする。

ここまで読まれた方は、それは性的虐待では?と思われたかもしれない。
しかしその友人Aは勝手に両親の寝室に忍び込み、そのゴミ箱から性生活の証拠を得て、それを同級生たちにみせ自慢をしていたのだ。
「私の両親、現役なの」それが彼女の口癖だった。ジーザス。

そんな調子で、美しい茶畑を眺める余裕などなく、そもそもその時期の茶畑は黒い覆いがしてあり、その中で茶摘みをしたので、目の前に広がるのはひたすら深い緑だった。
お昼を食べた記憶はないが、確か朝から昼過ぎまで5、6時間の作業であり、さすがに後半は疲れてきて、半ば乱暴気味に茶葉をカゴに突っ込んだいたような気がする。
なにも思わず考えず、友人のおしゃべりもどこかに消え、ただただ作業に徹した。

作業を終え、黒い覆いの中から出ると、太陽が眩しく開放感があり、ようやく終わったと気分の良い達成感があった事をおぼえている。僅かな工賃(500円くらい)をもらい、軽トラの荷台に乗せてもらい、茶葉と共に移動する。それがなんとも爽やかで気持ちよく、同時に、あ、道路交通法的に、もう二度と乗れないんだろうな、となどと思いながら、貴重な体験だし、大切にしようと思い乗ったのだ。
今思えば、ホント軽トラごと茶畑に放り出されなくて良かったし、その後20年経つが、やっぱり軽トラの荷台には未だ乗れていないので、よい経験したと思う。青春っていいよね。

その後帰ろうとなった時に、お茶畑の持ち主からお声掛けいただき、そこの畑でとれたお茶(お茶畑の主人いわく、お茶っぱは商品だから煎れられないから茎茶だよ。とのこと)のお茶をいただき、お茶菓子まで頂いた。
今思えば、当時中学生だった私たちをとてももてなしてくれたのが、当時は全く気がつかず、ふーん、といった感じでそれを口にした(無論お礼はしたが)

それが、一口のむと、ふーんお茶か、では済まされなかった。
めちゃくちゃ味が濃いのだ。まず香りがちがう。ボワッと強く漂う芳香は、今までテケトーに淹れてのんだお茶とは全くちがうのだ。
ちがうだろ?と茶畑の主人はいう。
ウンウンと精一杯頷くしかなかった。
あの時ほど濃く、味わい深かったお茶は多分まだ出会ってない。煎れ方もそうだが多少なりとも作業で脱水気味になっていた故、めちゃくちゃうまかったのかもしれない。
渋みもそれなりにあったが、幾分甘みも強くお茶の底力を感じる味だった。

そんな爽やかさとささやかなお小遣いをにぎりしめて帰ろうとすると、例の友人Aがトイレに行きたいと言う。しかも急を要してるというではないか。
おそらく、友人A以外全員が、なんだこのバカいい加減にしろよ、と思っていると、川ですればいいんじゃない?という結論に達した。
近くには、人が住んでいるかすらも分からない民家はあるがコンビニはない。もう苦渋の決断だった。だからあの時トイレ確認したじゃん。行けよマジで。

そうこうしてなんとか川まで降りられる場所を見つけ、テキトーに見張りをし、友人が用を足すのを見守った。ようはやってるところをみていたわけだが、みるみるうちに川が増水してきたのだ。

「ヤバイ、離れるぞ」
と友人の1人が口にし、我々は川から避難した。
友人Aはまだ用を足している。えぇ無理だようぅなどと言いながら。
早くおいでよ!ともう怒鳴りながら、友人の誰かが川から上がることを促する。
ズボンやら靴やらをビショビショに濡らしながら戻ってきた友人は、あー怖かったと呑気に言いながら自転車に跨った。すでに彼女のいた場所は、すべて水に浸かっていた。
今思い出しても、増水の勢いというのは凄まじく、絶対川で無闇に遊んではいかん!と思ったのでこれもまた無駄には出来ない体験だったのかもしれない。

帰り道は茶摘みの話しは一切することなく、ただひたすら川が怖かったことを、口々に話しながら帰った。
一体今日は何しに行ったのだろう、そんなことを回想するまでもなく、ひたすらに川の増水について自転車を漕ぎながら話し合った。
でもホント、今日なんの日だっけ?

無事に帰宅したあと、なにを親に話したかは覚えていない。
今思えば、この混沌とした1日、おそらく茶畑に入る前からはじまっていた。
その町には茶畑もある。でもその前に恐ろしく大きな、複数のポルノ映画の広告も目に入るのだ。

ハゲ山にポルノ。
そこがまさに町と町の境目であり、いわば入り口だった。その町に入ろうとするといやがおうにも見えてしまう。
茶畑はもう少し奥にあって、全力でお茶を推したい町にも関わらずそこには生々しいエロスしかない。
そしてポルノ映画の広告は色あせることなく、順次最新作に描き換えられ、つねに鮮やかな色合いでそれはあり続けた。
この混沌こそが日常、人の営みなのか。
絶望したいほどの、何コレ、みたいな現実感がそこに確かにあった。

その後、20年の時を経て、その時の友人達のほとんどは同じ町に住み続け、互いに顔を合わしても一切言葉は交わさない、他人以下の存在となり、みな平和に暮らしているらしい。
気がついたらポルノ映画の広告は跡形もなくなっていて、お茶関連のゆるキャラらしきものが新しく設置されていた。ハゲ山もハゲではなくなった。

そして耽溺の教師は、あれから10年近くも同様の教師生活をつづけ、ほぼ定年ちかくまで好き放題楽しんだ後、その公務員生活のルールにクレームをつけ、退職したらしい。
彼が一体子どもたちになにを伝えたかったかは、永遠に謎のままである。

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