見出し画像

デスゲーム化する社会【雑記】

僕たちは人生の選択を一歩間違えれば死ぬ時代に生きている。そんな感覚は世の中に蔓延している。こんな本が出るくらいである。

※個人的に「生きのびるための事務」ってタイトルがなんかツボ。

「生きのびるために」「生き残るために」「生存戦略」うんぬん、こうした言葉は人気だ。なんといってもいまはVUCAの時代なのである。数年前の常識が常識ではなくなるのである。潮流を読み間違え、身に付けるべきスキルを身に付けなかったり、キャリア選択を誤ったりすれば、生きのびることができない。言い換えれば、死ぬらしい。

まぁ、ここで言う「死ぬ」というのは「マクドナルドでハンバーガーを焼く羽目になる」とか「スーパーで品出しをやる羽目になる」といった意味であり、文字通りの死を意味しているわけではないのかもしれない。しかし、こうした扇動的な言葉を使っている人や、それに扇動されている人からすれば、マクドナルドでハンバーガーを焼く人生は死んでいるに等しいという感覚を抱いているのではないか。

要するに、一歩間違えれば(文字通りの意味か、比喩的な意味かはさておき)死ぬ時代にあるのである。江草さんはこれが「もはや戦争状態である」という指摘を行ったが、まさしくその通りであろう。

だが、あらためて考えれば意味不明な状況である。べつに爆弾が降り注いでいるわけでもないし、ストームトルーパーがそこら中を練り歩いているわけでもない。ジャバザハット率いる犯罪シンジケートの抗争に町中が巻き込まれている状況でもない。あるいは、イナゴの群れに田んぼが食い荒らされて国民の大半が飢えに苦しんでいる状況でもない(むしろ、食品ロスを問題視しているくらいである。自給率の話はまた別の問題・・・)。

少なくとも日本だけで見れば、極めて平和で豊かな生活を享受しているのである。だが、誰もそう考えてはいない。満足に衣食住を満たせる椅子はこれからどんどん失われて生き、先見の明をもって時代を見ぬき、特別なスキルを身に付けなければならない。一歩間違えれば椅子取りゲームに勝利できず、ブルーシートに終身雇用される・・・そんな感覚が時代を覆い尽くしているのである。

ここで行われているのは社会全体としてみれば不毛な椅子取りゲームである。そうではないと、誰が断言できるだろうか? 受験戦争。増え続けるFラン大学。「非認知能力」だとか「STEAM」だとか次々に教育バズワードを生み出し続ける教育業界。どんどん不毛化していく就活。人材ビジネスに食い荒らされる転職市場。NewsPicksという名のファッショントレンドサイトは、ビジネス芸人という名のファッションモデルを登場させ、「AI」「DX」「メタバース」「5G」「NFT」といったバズワードを流行らせては廃れさせる。それに乗っかるコンサルと広告業界。

彼らはクライアントの競争力を高めているという名目で金を儲ける。彼らに支払った金額よりも、クライアントが多く儲けるとクライアントに約束する。そりゃあそうである。「100万円の広告費をつかえば50万円利益がアップします!」「教育費に100万円かければ生涯年収が50万円アップします!」「100万円で私のコンサルを受ければ50万円だけ儲かります!」などと言って営業をかける人はいない。

ところがどっこい。実際に起きている事態は、まさしくそのような状況にほかならない。広告もコンサルも教育も人材も、市場規模は右肩上がりである。そしてご存知の通り、日本はまったく経済成長していない。「私たちに金を払えば、あなたたちの業界を成長させますよ?」と言っている人たち以外、成長していないのである。これは社会全体で行われている詐欺という以外に、まったく相応しい呼び名が思い当たらない。

AくんがSTEAM教育を学べばBくんも学ぶ。A社が広告費を増やせばB社も増やす。片方の軍拡は同時に相手の軍拡を引き起こす。結果、軍拡競争は過熱化して行く。競争の結果、社会全体の富が増えて人々の幸福度が高まるなら、好き放題に競争した方がいい。だが、現実はそうなっていない。全体のパイは増えないまま、パイを奪い合っているわけだ(そしてパイを奪うもっとも効率的な方法が「パイの増やし方、教えますよ」とそそのかすというやり方なのである)。もちろん薄々みんながそのことに気づいている。もはやトリクルダウンなんて誰も信じていない。だからこそ、みんなが「生き残るため」に必死なのだ。

たしかにこれは市場というベールに覆われた戦争である。あるいはデスゲームとでも言い換えられようか。鉄骨を渡ったものだけが生き残り、金を得られる。そんなカイジのような世界である。

これは比喩でもなんでもなく、文字通りの意味である。鉄骨を渡ること自体に意味はないように、この社会において競争に勝つためのスキルを身に付け、それで金を稼ぐこと自体に意味はない。金を得るためにゲームを上手くこなしているだけにすぎない。

どうすべきかはわかりきっている。戦争をやめよう。鉄骨渡りをやめよう。誰かひとりが辞めるのではない。社会全体でやめなければならない。

ところがこんなことを言えば、「競争をやめる? ソ連がどうなったか知らないのか?」といった反応を引き出すことになる。競争がなくなった途端に、人々はなんの生産も行わなくなり、不毛なネットゲームに時間を浪費しはじめる‥そんな未来予想図はいたって常識的なものとして受け止められる(すでにこの社会で行われているのが不毛なゲームであるというのに!)。

より過激な人物であれば、社会が競争をやめた途端にスターリンのような人物が現れて人々を次々に粛清しはじめるという恐怖を煽り立てる。あるいは「競争をやめる? お前、洞窟で石器時代みたいな生活を送りたいんだな?」みたいなパターンもある。こうした言説もさほど常識はずれだとは考えられないはずだ。「この社会に行われているのは不毛な椅子取りゲームだからやめよう」という主張の過激さに比べれば可愛いものだろう。

いずれにせよ、競争をやめた途端に、なにかとんでもないことが起きるという恐怖は、社会全体に広く行き渡っているのだ。実際には逆である。金を奪い合う競争の結果、社会がとんでもないことになっている。金は貴重でもなんでもなく、人間が好き放題生み出すことのできる数字にすぎない。そんなもののために社会全体として不毛なゲームに、死にそうになりながら取り組んでいるのだ。もし、未来人が冷静に分析すれば次のような結論を下すだろう。「金という謎の宗教アイテムのための儀式で朝から晩まで駆けずり回っている未開人」と。

狂ってる人は自分が狂っていることに気づけない。狂っている社会も同様だ。だがどう考えても狂ってる。一刻も早く、この戦争を終わらせなければならない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!