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「部下を管理する」という不可解な儀式

僕が働く会社の、管理職と部下の会話。

管理職「自由にやらせて欲しいという意見を聞き入れて、3ヶ月間その通りにしてたと思うけど、ぜんぜん成果上がってないやん?」
部下「そうですね、すみません‥」
管理職「そろそろガッツリ管理すべきやな?」
部下「‥‥」


何かがオカシイ。

この直感は間違っていないように思う。だが、何がオカシイのか、説明するのは難しい。

順を追って考えてみよう。


まず前提として‥

これまで「ガッツリ管理」をしてきたが上手くいかなくなってきたので、「管理しない」という手法を3ヶ月試してみたけど上手くいかなかったというのが、これまでの経緯だ。

ここで注目したいのは、管理スタイルは何年もの間失敗してきたが、非管理スタイルが失敗していたのはたった3ヶ月ということだ。これだけで、「非管理スタイルは上手くいかない」と決めつけることはできないし、「管理スタイルに戻すべき」だと主張するのは(本来なら)難しい。

しかし、本来なら説得力に欠ける主張が、なぜか説得力を持つ言説として扱われているのだ。

ここに潜んでいる前提を明らかにしてみよう。


「管理される」とは誰しもが経験する義務

管理職は、あたかも「成果のためなら、喜んで管理を手放す」かのように振る舞っているが、実際はそうではない。

成果の有無にかかわらず、「管理は行われなければならない」と感じているのだ(この事実は、数年ものあいだ失敗していてもなお、「管理」を実行しようとしていることから裏付けられる)。

その信念を強化するロジックはおそらく、以下のようなものだ。

「管理される」というのは、誰しもが引き受けるべき義務であり、それを免除されるのは特権であり、イレギュラーである。

感覚としては、野球部の玉拾いやランニングのようなものに近いように見える。そこには「上級生になればやらなくてもいいが、新人のうちは苦労をしなければならない」という信念が働いている。

しかし、「管理」が玉拾いやランニングと違う点が1つだけある。

玉拾いをしなければ練習は成立しないし、ランニングをすることで体力がつく。どちらも野球が上手くなりたい、試合に勝ちたいという成果に叶う行為なのだ(「投手ならともかく、野手にそこまで体力は必要ない」という批判は、無視する)。

しかし、「管理されること」が成果のために役に立つかどうかは必ずしも明確ではない。むしろ、これまで数年間失敗続きだったのだから、役に立たない可能性の方が高いように見える。

それでも尚、「管理すること」への信頼は崩れない。

そして、部下もなぜか「管理すること」の正当性を受け入れるべきだと感じている。

少しずつ、別の無意識の前提が明らかになってきたように思う。それは‥


人は管理されなければサボるという前提

「自由にやらせて欲しい」という部下の主張は、恐らく経営陣には「サボりたい」と翻訳されている

「成果をあげる方法を考えたいから、自由にやりたい」とは決して解釈されないのだ。

サボるチャンスさえあれば、誰しもが成果をそっちのけで無計画にサボる。「管理」を通じて自制を学ぶことがなければ、「管理なし」で成果を上げる方法は身に付かないと考えているのだろう。

管理される中で成果をあげることでようやく「管理されない」という特権が与えられるというわけだ。

管理すれば間違いなく成果を上げられるというのであれば、これは正しい判断なのかもしれない。

管理する→確実に成果が出る
管理しない→成果が出たり、出なかったりする

‥だとするならば、まずは管理して「コイツなら管理しなくても成果をあげそうだな‥」と判断すれば管理しないというメソッドが合理的だ。

しかし繰り返すが、管理したからといって成果が出ているわけではない

それに管理されていても人はサボる。むしろ、個人的な感覚とすれば管理されている方がサボる

逆に任せてもらっている方が、責任感をもって仕事に取り組むと考えるのは、さほど常識に反する考えではないように思う。


だからと言って…

部下は「自由にやらせてくれても、絶対にサボりません!」とは主張できない。その次に返ってくる言葉が予想できるからだ。

それは「じゃあ、成果を保証できるんだろうな?」という言葉だ。

もちろん、保証できるわけがない。未来のことは誰にもわからないからだ。そして、部下は、「自由にやれば、なんとかできそうな気がする」という予感を押し殺すこととなる。

一方で、管理したところで「成果を保証」できるわけではない

それなのに、「人の自由を制限して管理するということは、あなたは成果を保証できるということですか?」と聞き返されることはない


なぜなら…

管理されていたところで「成果の有無の責任は部下にあることにされる」からだ。

あくまで行動の主体は部下だ。管理されている中であっても、成果を出すべきは部下であり、管理職はただ報告書に目を通して、助言を行うだけ

助言してうまくいかなかった場合は、それは助言を忠実に実行しなかったことが原因であり、部下が悪いということになる。

そして管理職は「アイツは使えない」と愚痴をこぼす。

ここでそろそろ気づくはずだ。


管理職の助言には意味がないということに

2つの根拠がある。

1つ目は、管理職の助言によっては何ら成果には結びついていないこと。「それは、十分に実践されていないからだ」と反論することもできるが、この場合、管理職の重要な責務である「部下を納得させる」「部下のモチベーションを高める」という役割を、管理職が果たせていないかということになる。

「本来、これだけの管理を行えば、モチベーションが高まり、助言を実践するべきであるにも関わらず、そうならないほどに部下の人格に問題がある」と主張するのであれば話は別だが、それはもはや採用段階に問題があると結論づけざるを得ない。

2つ目は、1つ目とも関連するが、部下自身が「自由にやりたい」と主張しているということは、そもそも部下は「管理職の助言は役に立たない」と感じているということだ。実際に助言を実行している人が、経験的にそれが役に立たないと感じているのなら、それはもう役に立たないと断言してもいいと思う。


ならば一体、管理職とは何をする人なのだ?

今のところ、「役に立たない」と部下が感じる助言を行ったり、部下が「必要ない」と思っている管理とやらに手間暇をかけたりすることで、高い給料を持って帰っているだけの存在だ。

ここまで振り返れば「管理を受けないという特権を簡単に与えてはならない」「管理されなければ人はサボる」という信念を維持するためだけに、「管理」と「管理職」は維持されているように見える。

もちろん、この信念には根拠がないし、「成果」とは無関係どころが、逆に成果を阻害している可能性もある

何らかの理由で形成された根拠のない信念を維持するために、成果をそっちのけで、「管理」と呼ばれる役に立たない行為が行われ、その実践主体に高い報酬や社会的地位が与えられている。おまけに「管理」をされている側は、「自由がない」「自分には能力がない」という惨めな想いを感じている。

この不可解な儀式は、一体なんなのだ?

管理職とは、誰なのだ?

わからないけれども、明らかにこれは「成果主義」とは関係がない。そこに通底するモノは、「イデオロギー」とか「宗教」「信仰」と呼ぶ方が正確だろう。

さて、僕なりの意見を述べよう。


「他人を馬鹿だと思う人」が管理職になりたがる

自分の胸に手を当てて考えて欲しい。いままで何らかの成果をあげたときや、自分が仕事の能力を高めたとき、「上司の管理のおかげ」だと感じたような出来事は今まであっただろうか

僕はない。多少助けてもらったことはあるが、脇役に過ぎない。概ね自分自身(あるいは対等なメンバー同士)が考えて、創意工夫し、行動した結果が、成果に結びついたと感じている。

おそらく大抵の人はそのように考えているのではないだろうか。

ならば、僕には大抵の人には創意工夫して成果をあげる能力を持っていると感じられるのだが、管理職になりたがる人はそのようには考えない。次のように考えているはずだ。

「私は自分で考えて実践できたが、部下はそうとは限らない。ならば、私が助言し、導かなければ、上手く成果を上げられないだろう」と。

これは端的に言えば、部下を子供扱いしているし、馬鹿にしている。自分とは違う、愚かな人間であると考えているのだ。

その原動力となっているのは、他人を見下したいという欲望か、子供扱いしてコントロールしたいという欲望か、自分を優位に見せたいという欲望か、わからないけれども人類が進化の過程で獲得してきた何らかの欲望だ。

つまり「管理職になりたい人」とは、欲望を抑えきれず、欲望のままに振る舞う人物ということになる。本来、管理されたり、助言を受けるべきは、そういう人物であるような気がしてならない。

明らかに足りないのは理性だ。ブレイディみかこ風にいうと「エンパシー」だ。他人の意見や人格、考えを理解しようという努力だ。


結論、管理職はいらない

考え方としては「アナキズム」なのだが、「アナキズム」という言葉は流行らないので、ヒエラルキーのない組織を指す「ティール組織」という言葉を流行らせたい。

この言葉が2~3年ほど前にスマッシュヒットしていたが、残念ながらスマッシュヒット止まりだ(揺り戻しで「識学」というヒエラルキー重視の組織運営スタイルも出てきた)。

どこか、超・大手企業がこのスタイルを採用すれば、再びムーブメントになるような気がしてならないが、そういう動きは未だ見られない。

「ヒラエルキーがいらない」という主張は、こんなにも弱々しいものなのだ。こんな風に僕がnoteに書いたところで、社会は何も変わらないだろうが、少しずつ歩みを進めていこう。

いらないのだ。管理職なんて。邪魔者だ。害悪だ。搾取階級だ。自分の欲望を満たすだけの煩悩の塊だ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!