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飼い殺しにされた、遊びの天才たち【雑記】

4歳の息子が長い長い夏休みに入りはや幾星霜。暇を持て余した息子が暴れ回る家の中で出版の仕事をやることを半ば諦めた僕は、結局のところ息子と遊んでたりする。とはいえ、家の中で遊ぶにも限界がある。ゲームをやる。プラレールをやる。YouTubeを観る。絵本を読む。楽器をやる。絵を描く。料理をやる。色々とやることはあるのだけれど、子どもというのは往往にして飽き性なので、家の中では満足いく没頭にはなかなか至らない。

となると外出しなければならない。するとどうなるか? ショッピングモールやキッズスペース、プール、レストラン、カフェなどなど、途端に金がかかるのである。金を使わずに子どもを退屈させない方法がほとんど見当たらない。いや、河川敷や公園に繰り出して虫でも捕まえていればいいのだ。実際、昨日もトンボを捕まえに行った。だが、それは昨日がまださほど暑くなかったからである。晴れの日に公園に行ってみると、元気にはしゃぎ回る子どもの1人も見かけない。未就学児だけではなく、小学生もいない。夏休み中であるにもかかわらず、である。

暑すぎるのだ。おそらく子どもは暑いのは我慢できる。僕も別に我慢できるというか、何かをしていれば気にならない。だが、かわりに死ぬ可能性が出てくる。あと、日焼け止めを塗らないと肌が焼け死ぬ。

結局、やることのない家の中に引き篭もるか、金を払ってクーラーを浴びにいくしかなくなるのである。

サツキとメイの家みたいなところにでも住めばよかったと思う。その辺で遊んでこいとほったらかしにすれば、川でおじゃまじゃくしでも捕まえたり、トトロを追いかけたりして遊んでいるわけだ(いや、これは田舎を舐めているのかもしれんが)。サツキとメイのお父さんは子ども2人を前にして執筆の仕事なんかをやっている。年齢がそれなりに上だとはいえ、僕からすれば夢物語である。子ども2人の面倒を見ていたら、LINEの一通を送ることすらミッションインポッシブルである。noteを書くなんてもってのほかだ。

ちなみに付け加えていえば、金を払って入る子どもの遊び場的な場所は近所に二箇所あったのだけれど、数年前に立て続けに閉鎖された。当然である。子どもというのは基本的に割に合わないのだ。飲食店で皿を割ったり、ジュースをこぼしたり、店内をはしゃぎ回ったりして、厄介ごとを引き起こすのはたいてい子どもであるが、子どもは無料だったりする(手間を考えれば子ども料金は倍とってもいいくらいだろう)。この少子化の時代において、経済合理性を追求するには子どもを切り捨てた方がいいに決まっている。

結局、子どもを満足させるためには車を走らせて、どこか遠くにあるクーラーが効いていて、子どもが騒いでも怒られない申し訳程度のスペースを探し出さなければならないのだ。

子ども専用車両的なアイデアは、この時代に象徴的である。こうしたアイデアは、子ども専用車両以外を大人専用車両化させるリスクを孕んでいる。同様に、キッズスペースはキッズスペース以外を大人専用スペース化するのだ。「遊びたいならここで遊んでね」と、ごくごく僅かなスペースに押し売りされ、金を払った子どもだけがそこで遊べるのだ(ファミリー向けの施設に行くと、少子化が嘘に思えてくる。みんなそこに集まらざるを得ないからだろう)。

子どもは遊びの天才であって、どんな場所でも遊べるし、なんでもおもちゃにする。しかし、頭の硬い大人たちは遊びを制限する。大人が考えたおもちゃで、大人が考えた安全でルール通りの方法で遊ぶように仕向ける。それでも子どもは遊んだりするわけだが、ウサインボルトを幼稚園の砂場に閉じ込めるような狂気の沙汰であろう。

どうして社会はこうなった。どうして子どもが道で遊んでいたら「邪魔したらダメよ」と怒られるのか。きっと邪魔なのは大人の方なのだろう。あくせくと動き回り、通行を邪魔されただけでイライラするような大人の生き方こそが、遊びを満喫しようとする子どもを邪魔しているのだ。つまり、労働が悪い。

僕はなにを考えていても労働に帰ってくる。どうやら僕はこの労働という奴を懲らしめないといけない運命にあるらしい。子どもたちを、いや大人も含めて、僕はこの労働社会という名の監獄から解き放ってみたい。子どもは遊びの天才だと言ったが、大人だって遊びの天才である。朝から晩まで遊ぶ大人で溢れかえった社会の方が、きっといい。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!