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結論のない文章【雑記集】

■労働

労働者とはパートタイムの奴隷であると、ボブ・ブラックは言った。そして、奴隷とは社会的な死を意味する。ゆえに、労働とは1日のうちの半分かそこらの時間、自分の命を捧げる行為にほかならない。

僕たちは生きるために労働しているのだと自分に言い聞かせる。しかし、そのあいだ僕たちは死んでいるのだから皮肉なものである。

人間が生きるために死ぬ必要はない。このことを認める強さを持つ人は多くはない。死なずとも、生きることは可能なのである。僕たちは生きたまま、労働をしているときと同等の達成、いやそれ以上の素晴らしい達成を成し遂げることができる。僕はそう断言したい。

人間は、人間をちっぽけな存在と見なすのに慣れてしまった。人間は、人間の大半を掃除当番をばっくれる不良少年のようなものとみなしている。ご褒美をぶら下げるか、箒で追い立てなければ、不良少年は掃除をしない。そう思考するのに慣れてしまった。


■結論のない文章

結論のない文章を書きたい。と思ったら、それがこの文章の結論になってしまったのだから皮肉な話である。

思考というのはひとつの発作である。なにかしらの事象を観察して、それの意味するところを考える必要はないのだ。ただ事象を事象として噛み締めて、そのまま忘れればいい。それなのに僕は「つまり、どういうことが言えるのだろうか?」などといちいち考えてしまわなければ、文章を終わらせられないのである。

とはいえ僕からすれば、結論のない文章は射精のないセックスのようなものに思えるのだ。どうせセックスするなら射精したい。


■あとがきにかえて

「あとがきにかえて」という言葉をみたときに僕は不思議に思う。なぜ「あとがき」と自信を持って言い切ることができないのだろうか? どこかにあとがき警察のような人がいて、「いや、あなたの文章はあとがきではありませんよ?」と言われるのを見越して「ええ、だから『あとがきにかえて』なのです」としたり顔で反論するつもりなのだろうか?

僕はこれまでの人生であとがき警察なる存在に出会ったことはない。なら、「あとがき」くらい言い切ってもいいのではないか。

言い切ることには勇気がいる。「〜と言われている」「〜と思われる」といって表現は、手垢のこべりついたギターのようなものでついつい手に取りたくなる。もう少し言い切る勇気を持ってみようか。「労働撲滅」とかね。


■哲学者

どれだけ下手くそでも、アマチュアでも、バンドでギターを弾けばギタリストである。それと同じように、哲学をしていれば哲学者である。

僕がやっていることは哲学である。バンドでギターを弾いているのに「僕はギタリストではありません」と宣言する人はいない。ゆえに僕は哲学者を名乗る。名乗りたいというよりも、名乗らざるを得ないのだ。

哲学者とは、管理栄養士や弁護士とは違う。哲学者とは国の法律に基づいて特定業務への従事許可を与える国家資格ではない。ゆえに名乗る。


■oasis再結成

嘘か本当かは知らないがノエルの離婚の慰謝料を稼ぐためにoasisが再結成するらしい。

oasisの音楽には実家のような安心感がある。Gメジャーのローコードとペンタトニックのギターソロ。水戸黄門を観るように安心して聴いていられる。

とはいえoasisのファンは高いチケット代を購入したあと、ずっとハラハラしているらしい。「俺がライブに行く前にノエルとリアムがケンカ別れしないだろうか?」と。

そこを心配されるのが面白い。逆にいえば、oasisくらいしか決まっているライブを「ケンカしたから」という理由でブッチするようなバンドがいないのも、よく考えればおかしい話である。

もっと気分が乗らないからやらないが許されてもいいと思う。もちろんoasisがライブをぶっちしたことを原因として、人が死んだりするのであれば、そうはいかない。だが、もし本当に誰かが死ぬならノエルもリアムも真面目にライブをやり遂げるだろう。

世の中の大半の仕事は、やらなくても死なないのである。もっと肩の力を抜いてみたいものだ。


■プラセボ

新しい医薬品を実験するときは、プラセボと本物の薬の効果を比較実験して、プラセボの効果を差し引いた効果をみようとする。

これが僕はずっと不思議だった。「プラセボの効果も薬の効果ってことじゃなんでだめなの?」と思っていたのだ。

「おぉ、医者が処方してくれた薬なのだからきっと効き目があるに違いない」と信じてそれで実際に効き目があるのなら、それは薬の効果ではないのか? 「プラセボを信じられない人に効かないではないか?」という話もあるが、それは体質の違いで薬が効かないってだけの話で、別にさほど気にする必要はないのではないか?

まるでプラセボの効果はなかったものであるかのように扱われているが、とんでもなく宗教染みているとかんじずにはいられない。「私たちは思い込みや信仰に左右されない論理的で合理的な存在であり、プラセボの影響を受ける人は精神病患者かなにかですよ?」とでも言いたげではないか。その合理性への信仰こそが、僕には精神病に見える。

いや、もしかしたら「これはプラセボ効果ではありませんよ!」という実験結果を伝えることによって、「おお、これはプラセボではない、科学的に効果が証明された薬なのだ!!」という確信を与えることにより、さらに大きなプラセボ効果を引き起こしているのかもしれないが‥。


■搾取

搾取とは、幸せを奪い取られることではなく、幸せの形を他人に決められることだと思う。

「今日から俺はお前を搾取する」と面と向かって誰かに言い放った人間は、たぶん歴史上1人もいない。「ええから、こうするんがええんや。それがお前の幸せなんや。お前はまだまだ世の中のことがわかってない。だからええから言うこと聞いとけや」という言葉なら、そこらじゅうから聞こえてくる。

あるいは封建時代なら「そう決まっている」とか、そんな形だっただろうなぁ。「理由も根拠もないが、俺はいまからお前を搾取する」と言った人はいないだろうなぁ。


■ポイ活

僕のおじさんが「スーパー銭湯に1回無料で入るために、3年間ものあいだ毎朝ポイントサイトにログインし続けた」と嬉しそうに語っていた。散歩ついでにログインするのが彼の日課なのだという。あの嬉しそうな表情が忘れられない。

「そんなめんどくさいことするならお金払ったらええやん」と言う人は、彼の心がわかっていない。彼は「コスパ良く生きる」という目的のためならコスパなど気にしないのである。

人間には信仰が必要なのだ。彼にとってそれは経済合理性であり、コスパなのだ。その信仰を追求する行為そのものが、彼にとって幸せだったのだ。

もし仮に彼がスーパー銭湯に行くのをすっかり忘れて、ポイントを失効したのだとしても、彼が幸福そうに毎朝ログインしたという事実は消えない。彼は紛れもなく幸福だった。それは一度スーパー銭湯につかることによって得られる幸福とは比べ物にならないほどの幸福なのだ。

「格安SIMぅ! ポイ活ぅ! 積立NISAでS&P 500長期保有ぅ! コストコで買いだめて小分けにして冷凍ぅ!!! コスパコスパァァァ!!!」と夢中になるのは、たしかに楽しい。その楽しさを味わうためなら、コスパなんて気にならないくらいに。


■合理性

合理的でない人を僕は見たことがないのである。メールを使わずにFAXを使い続ける人は、「FAXを使いたい」という目的に対して合理的にアプローチしているという意味で合理的である。月1万円以上のケータイ代を払う人は「キャリアの乗り換えがめんどくさい」という価値に対して合理的にアプローチしているという意味で合理的である。

むしろ「人が合理的でない」という状況がよくわからないのだ。

なるほど、「新しい技術を積極的に使って効率化して時代に取り残されないようにせなあかんなぁ」と言いながら「FAXの方が書き込んだりできるから便利やろ」と言っている人は非合理的に見える。だが彼は「いままでのやり方を変えたくない」という目的と、「自分は思考停止で旧世代のレガシーテクノロジーを使い続ける老害だと認めたくない」という目的の両方に、合理的にアプローチしていると言える。

言ってることとやってることが頓珍漢に見えるのは、たんに本人が自分の目的に無自覚なだけではないか?

そう考えれば、合理的ではない人がどういう人なのかわからなくなる。どこかにいないかい? 合理的じゃない人。


■天ぷら

人類がはじめて天ぷらをつくったとき、なにをタネにしたのだろうか? シソではないことはたしかだろう。なんてことを、天ぷらをつくりながら考えていた。

調べてみると、たぶんレンコンかサツマイモっぽい。たぶんね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!