見出し画像

月刊無職を買って、キャリアブレイクについて考える【雑記】

空白期間恐怖症と呼べるほどのキャリア至上主義である日本社会。そこに対して「少しくらい休んだっていいじゃないか? キャリアブレイクキャリアの休憩をしてもいいじゃないか?」というアンチテーゼを打ち立てようとするキャリアブレイク研究所という団体がある。キャリアブレイク研究所は、取り組みの一環として、キャリアブレイク中の無職がつくる『月刊無職』という新聞を毎月発行している。

ずっと気になってはいた。なんと言っても僕も別の意味のキャリアブレイク労働撲滅を訴えている人間なのである。だが、お金を払ってコンビニプリントしなければ入手することができない『月刊無職』は入手するのに心理的なハードルがあり、ずっとスルーしていたのだ。

そんなある日、noteのタイムラインにこんな記事が現れた。

どうやら、無職ライターたちのトークイベントと、月刊無職の即売会が兵庫県は尼崎キューズモールで行われているらしいのだ。

・・・・これは、行くしかないだろう。

ということでイベントの参加をネット予約し、僕は尼崎へと向かった。


(余談だが、キャリアブレイク研究所の代表の人は、「尼崎は大阪である」という関西人にしか伝わらないボケをナチュラルにかましていて笑ってしまった)


無事、イベントに参加した僕は、この機会でもない限り『月刊無職』を買うことはないだろうと考え、大人買い。2024年2月から7月まで丸っと購入(それでも1500円!)し帰りの電車で読んでみた。

内容は、とにかく等身大である。プロのライターでもなければ、小説家でもない無職が書く文章なのだ。鋭い社会批評でもなければ、抱腹絶倒の面白エッセイでもない。「なぜキャリアブレイクしたのか?」「キャリアブレイク中どのような心境の変化があったのか?」こうした等身大の心情が、装飾なくただひたすら描写されているのだ。

これは無職が心の底から求めている文章なのだろうな、と思った。無職にはアドバイスやノウハウは重荷になる。「ヤバい、自分もなにかこうどうしなきゃ! 自分の強みを活かして、次のキャリアにつながるアクションを起こさなきゃ!」といった具合に、自分を駆り立ててくるからだ。

『月刊無職』のなかでも、トークイベントのなかでも、無職になった途端に「何者かにならなければならない」という焦りに駆り立てられたというエピソードがたびたび紹介されていた。それは言い換えば、「自分はこれをやっている人間です」と自信をもって言えるだけの没頭と専門性を手にしようという焦りである。しかし、結果としてなにもうまくいかない。なにもできない。「もう今日が終わってしまった。今日はまだなにもしていないのに・・・」。無職がそのような焦りを抱いたところで、何も解決しないであろうことは想像に難くない。

ゆるふわ無職がかねがね指摘するように、無職の辛さとは意味の喪失にある。「毎日学校や会社に通うこと」あるいは「家事や育児に専念すること」は、僕たちに「これを続けるべきなのだ」という確信を(多かれ少なかれ)与えてくれる。だが、無職となればとたんにやるべきことがなにかがわからなくなり、宇宙の中にポツンと孤独に浮かぶような感覚にさいなまれてしまうのだ。

そんなときにキャリアブレイクという概念は、新たな意味を提示してくれる。それは「なにもしない」という意味である。『月刊無職』のなかには、無職の仲間が見出される。自分と同じような人が、自分と同じように悩んでいて、そして、「なにもしない」に没頭していったプロセスが見出される。ここで無職は「あ、『なにもしない』に意味があるんだ。自分もこれをやればいいんだ」という気付きを得る。

ニーチェが言うように、人間はただなにもしないでいることはできない。その状態で健康な精神を保ち続けることは不可能だろう。だからこそ、「なにもしないこと」に意味を見出さなければ、「なにもしないこと」は成し遂げられないのだ。そして実際に、「なにもしない」にはおそらく意味がある。さきほど、無職に対するアドバイスやノウハウといった解決策は解決策にならないことを指摘した。多くの場合、真の解決はなにも解決しないことから始まるのだから。

だから無職は『月刊無職』を読んでも損はないと思った。だが同時に、無職以外の人間も『月刊無職』を読むべきではないかと思った。

空白期間恐怖症に陥っている面接官は、次のようにイメージしている。「キャリアに空白をつくっている人間は、その間、キャリアについて苦悩や葛藤を抱えながら有益な解決策に向かっていたのではなく、ダラダラと時間を浪費し、無意味に怠惰を謳歌していた」と。もしそうでないのなら、空白期間をここまで否定する必要があるだろうか?

しかし、『月刊無職』を読めば気づくはずである。無職も、人生について思い悩む、1人の真面目な人間に過ぎないと。悩んだことのない完璧な人間など1人もいない。キャリアブレイクとはたんなる悩みの期間であり、誰にでもあり得る期間なのだ。それを否定する必要はどこにもないのである。そうして面接官がキャリアブレイクを知れば、もっと無職はキャリアブレイクしやすくなる(こうしたサイクルを生み出すことがキャリアブレイク研究所の狙いなのだろう)。

さて、ここまでキャリアブレイクや『月刊無職』を肯定してきたわけだが、当然ながら弱点もある。まず、キャリアブレイクとはあくまで休憩である。一時的に「なにもしない」という意味を肯定しているものの、これはあくまで次なる人生の意味を見つけるまでの間の幕間にすぎない。要するに「永遠になにもしなくてもいいよ」という運動ではないのである。

となると、である。突き詰めて考えていけば、「まぁ半年とかは全然アリだよね。でもさすがに3年とかをすぎるとちょっと社会的にまずいんじゃない?」といった話に至らざるを得ないのである。

けっきょくのところ無職は「なにもしなくていい」を心の底から信じきることができない。「さすがに3年以内に決着をつけなきゃ・・・やっべ、もう1年経ってるのに、なにもしてない!! やっべもう2年!!」といった焦りを排除しきることができないのだ。

3年を過ぎたころにバタバタと慌てて就職し、そこがクソブラックで、クソつまらない職場だったとしよう。彼はきっと社会からこのように告げられているように感じるはずだ。

3年もじっくりとキャリアブレイクしたよね? じっくり吟味して考えたのだから、いまの仕事は君がやりたい仕事のはずだよね? まさかやめないよね? もしこれでやめたなら君はたんなるジョブホッパーで、怠けものってことになるけど、それでいいんだよね?」

ふたたび無職がメンタルを破壊されれば、もう立ち直れないかもしれない。

もちろん僕は少し意地悪をしている。ここまで悲観的なシナリオに陥ることは稀だろう。だが、どうして僕たちはこう言い切ることができないのだろうか。「10年だろうが、100年だろうが、寝転んでいて構わない。なにをしてもかまわない」と。

キャリアブレイク体験記を読んでいれば、あきらかに導き出される結論がある。それは「人間はなにか活動をすることを欲する」という結論である。それは人の役に立つことかもしれないし、人とかかわることかもしれないし、とにかく一人で没頭することかもしれないし、それらの組み合わせかもしれない。人は自由を与えれば、きっと有益な活動に取り組み始めるという結論はごくごく自然な結論である。ダメ人間の烙印を押されがちな無職ですらそうなのだ。マジョリティがそうではないと考える理由などどこにもない。

なら僕たちはこう言うべきだったのだ。万人が好きなことをやればいい、と。仮にダラダラとネットフリックスを観て何十年も過ごす人が1%か2%いたとして、なんの問題もない。好きにすればいい、と。

現代社会においては、キャリアブレイクの後には必ず金を生む活動をはじめなければならない。拙著『14歳からのアンチワーク哲学』のなかで散々指摘している通り、この構造こそが、街路樹に除草剤を撒いたり、過剰なCO2を排出したり、パワハラやセクハラを横行させたり、犯罪者を生み出したり、社会のあらゆる問題を引き起こしている(だからこそアンチワーク哲学は金を稼がなければならない社会構造そのものを攻撃している)。だからこそ、構造への攻撃と変革こそが真の問題解決につながると考え、僕はアンチワーク哲学の普及に努めているのだ。

とはいえ、こうした問題をキャリアブレイク研究所に押し付けるのは酷というほかない。キャリアブレイクというサバイブ術という武器を無職に与え、非無職の武装解除をすること。それだけで十分に有益な活動であると言えよう。

我田引水してしまったが、労働撲滅を訴える論者としては、キャリアブレイクは今後とも注目していきたい概念である。

※キャリアブレイクについては以下も参照。


※アンチワーク哲学についてはこちらを参照。


※もっと拗らせたニートの文章が読みたい方はニーマガもチェックw


1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!