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ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』を読んで

「この本は、今じゃないんだよなぁ」

そう言って、埃まみれの積読エリアにピケティ『資本とイデオロギー』がやってきた。自分がリアルタイムで興味関心のあるテーマと、新発売された本が噛み合わないことはよくある(と、言い訳しておこう)。

代わりに読んだのが『働くことの哲学』である。

この本は、以下の書評でいただいたコメントの中でタイトルが上がっていたので、読んでみたのだ。

(そろそろ、労働哲学者でも名乗ろうかと思ってきた。宗教の教祖とか言っていると、イタい奴だと思われるし)


■この本のスタンスは?

以下の一文を読んだとき、僕は直感した。「この男との戦いは避けられまい」と。

ためしに労働のない世界がどのようなものであるかを想像してみよう。それがいま私たちの生きている世界とはまったく異なったものになることはたしかだが、よりよい世界となっているかどうかは定かではない。労働のない世界では、もはや仕事が私たちにとって自信のアイデンティティをしるしづける本質的な特徴となることはなくなるだろう。社会関係は新たな土台をもとにして形成されねばならなくなろう。人生における目的というものへの感受性の一部は–––––ことによると大半が–––––失われてしまうだろう。私たちには、もっと自由に使える時間は増えるだろう。だが、一から想像されなおされねばならなくなるだろう。

p12〜13

僕が労働なき世界という本を出版したことに対する当てこすりのようにしか思えない。いや、わかっている。この本が出版されたのは2015年で、原書はもっと前なので、これは僕の被害妄想なのだ。それでも、明らかに労働批判論者に対して、スヴェンセンは冷ややかな視線を送っているように見える。

哲学者と社会学者は、往々にして労働の悲惨さを描き出すことに気をとられるあまり、労働から与えられることのある満足を関心から締めだしてしまう。

p26

スヴェンセンは労働を批判する左翼を、夢見がちなお子ちゃま扱いして批判しているわけだ。そして、僕たちが労働を失ったときには、アイデンティティもなければやりがいもなく、何もやるべきことのない退屈な日々が待っているという悲観的な見通しを述べている。

スヴェンセンは仮に労働が廃絶されても悲劇であると主張するだけでなく、そもそも労働を撲滅するという見通しそのものが実現不可能であると主張する。ここでスヴェンセンが想定しているのは「テクノロジーの発達で僕たちは働かなくて良くなる!」という労働廃絶論であり、それに対していわゆる労働塊の誤謬を持ち出してきて批判をしているのだ。

仕事がオートメーション化されてゆく規模はこれからも拡大しつづけるだろうが、それによって過去の遺物と化す職業が出てくる一方で、新しい職種も創造されつづけるだろう。私たちの前に広がっているのは、仕事のない世界ではなく、仕事が減ってゆくなどということがありそうもない世界だ。

p220

このことの根拠としてスヴェンセンが提示しているのは、グローバリゼーションに伴うオフショアリングによって工場が海外に移転したのちに、国内で新たな職種が登場したという経緯である。

衣類製造のコストにかんして、中国の企業に太刀打ちできるヨーロッパの企業はない。だからヨーロッパの企業はビジネスモデルを技術とデザインに転換せざるをえなくなった。同じような展開は家庭用電化製品や玩具などにかんしても生じた。
製造業におけるこうした衰退は、先進国の雇用状況にとってとりわけ大きな問題ではない。金融危機の起きる以前に眼を向けてみるなら、OECD諸国においてサービス業で創出された新しい雇用は、産業全体で失われた雇用の数を上回っていた。

p205

これが「テクノロジーが進歩したのに、なぜ仕事が減らないの?」という僕たちの素朴な意見に対する回答である。いわく「サービス業が増えたから」だ。

スヴェンセンはこの「サービス業」という言葉について深入りすることはなかった。が、他の箇所の描写からは、なんとなくそれの意味することは察しがつく。

私たちは余暇よりもショッピングを選んだ。

p173

全般的な生産力はこの50年で倍増したわけだから、原理的に言うならば私たちは一日の半分だけ働けばよいわけで、それだけで50年前の人びととまったく同じだけの生活水準を維持できる。だが、その生活水準で私たちがハッピーだと感じることはまずないだろうから、私たちはいっそう働かねばならない。

p106

どうだろうか? 『ブルシット・ジョブ』を読んだことがある人なら、この辺りの文章は「あー、君はまだそのレベルなのね…」とニヤニヤしながら読むことになるはずだ。

サービス業が一体何を意味するのか? 余暇よりもショッピングを選んだというのは本当なのか? 実際のところは「余暇よりもブルシット・ジョブを選んだ」というのが真実に近いであろうことは、グレーバー信者にとっては常識である。

スヴェンセンは『ブルシット・ジョブ』が出版される前にこの本を書いているので止むを得ない部分もある。しかし、惜しいところまで行っているのだ。そこまでいったなら、なぜブルシット・ジョブ論に到達できなかったのか?と悔やまれる。

スヴェンセンは社員のモチベーションを徹底的に無視した管理主義の増大や、管理主義の失敗から学んだ意識高い系リーダーがモチベーションアップに躍起になってそのことが逆にモチベーションダウンにつながっている現状を見抜いていた。それらが実質的に「創造された新たな雇用」や「サービス業」であると主張するのがブルシット・ジョブ論なわけだが、スヴェンセンはその結論に到達することはなく、労働者に対して意味があるのかわからない個人的な防衛を薦めるだけだった。

ただひとつできることがあるとすれば、せいぜい上司の発言に耳を貸すふりをして(時には理にかなった発言が聞けるかもしれない)、管理職の気まぐれが、別に気まぐれにすりかわることなく消えさるのを待つくらいだ。

p151

では、スヴェンセンは、仕事がなくなることはないのだから、無理矢理仕事にやりがいを見出して、我慢して働き続けろと言っているのだろうか?

おそらくその通りである。

だれにだって、仕事が退屈に感じられるときはある。問題は、私たちがこの退屈を受けいれそれとともに生きてゆけるかどうかだ。

p235

人生にはある種の目標が不可欠であり、仕事はそうした目標の一部だ。

p82

その反面で、スヴェンセンは仕事にモチベーションを抱くことが全くできない種類の仕事があることを認めている。いわゆるマックジョブであり、シットジョブであり、エッセンシャルワークの大半がこれに当たると言っていいだろう。

子どもたちに大きくなったらなにになりたいかと尋ねたら、お針子やスーパーの在庫整理の職に就くのが夢だと語る子どもはまずいない。(中略)ほとんど関心のもてない仕事をだれが選ぶだろうか。だが、だれかがそうしなければならない。

p96

では、平等にみんながやりたい仕事をできるようにすればいいのか? スヴェンセンは、その解答を「無理だ」と言って否定する。

映画『ロード・オブ・ザ・リング』の監督を務めたいと願った者はごまんといたが、その夢をかなえたのは、ピーター・ジャクソンただひとりであった。ジェット戦闘機の操縦士になりたいと願った者のうちで、じっさいになれた人間の数はごくわずかだ。

p101

要するにここでは、楽しい部類の仕事と、楽しない部類の仕事の2種類が想定されているわけだ。そして、ひと握りのクリエイティブクラスが楽しい仕事を独占し、大多数の人はそこまで楽しくない仕事につかざるを得ないというわけだ。

スヴェンセンはこれに対する回答は与えてくれない。実質的に諦めろと言っていることは以下の引用からも明らかだ。

完全に平等な配分を実現しようとした社会はいずれも、最後には「党」のメンバーを除いたすべての集団がありとあらゆる種類の善を奪われる社会と化してきた。

p102

何かを人に無理矢理納得させたいときに、共産党の悲劇ほどに便利なツールはあるまい。共産党を持ち出しておけば、どんな議論にも決着をつけることができると、僕たちは義務教育で習ってきた。

最終的にスヴェンセンは、エセ仏教的な渇愛論を持ち出して、読者を無理矢理丸め込もうとしてくる。

私たちが高望みをやめないかぎりは、なにが起きても私たちは失望せざるを得ない。

p236

社会に不満があるのなら、それはお前が高望みしているだけなのだから、なんとか仕事に意味を見出しながら、我慢して働けよ」というのが、この本のメッセージである。

読めば読むほど通俗的な労働観に支配されていて、僕はうんざりしてしまった。


■スヴェンセンが前提とする考え

スヴェンセンは以下のような通俗的な労働観を前提としていることは明らかだ。

  1. 人は労働をやめれば、やることがなくなり退屈に過ごすしかなくなる。

  2. テクノロジーが発展しても労働がなくならないのは、僕たちがレジャーを楽しむようになったからだ。

  3. 楽しい労働もあるが、つまらない労働の方が多い。つまらない労働も誰かがやらなければならない。


それに対して、僕の労働観は以下のようなものである。

  1. 人は労働をやめても、やることはたくさんある。むしろ労働をやめなければやりたいことができない。

  2. テクノロジーが発展しても労働がなくならないのは、僕たちがブルシット・ジョブに追われるようになったからだし、そもそもそこまでテクノロジーは発展いていない。

  3. 僕は労働をつまらない作業だと定義する。そして、誰かがやらなければならない作業も、それが強制されていなければ楽しむことは可能である。


※このあたりの根拠は以下に書いてある。最近、似たようなことばかり書いているね。すみませんね。

ともかくとして、ピリついた空気で始まったスヴェンセンとの対話は終了し、僕たちはピリついた空気のまま別れた。

とは言え、僕はこういう読書体験が実は好きだったりする。自分の意見との相違点をみることで、自分が言いたいことが浮き彫りになってくるのだ。

そろそろ次回作が書けそうである。書こうかしら。

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