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正座はブルシット・ジョブか?【雑記】

祖父の百箇日に参列した。が、お経が長い。なんだか、四十九日よりお経が長い気がしていた。僕の足は正座に耐えかねてプルプル震え始める。


やばい。耐えられないかもしれない。


咄嗟に僕は足から意識を逸らすために、なんでもいいから思考を遠くに飛ばそうとした。

思考を飛ばすには、なにかしらの問いを立てて、それに答えていくのがいい。問いがなければ思考はない。すべての思考は問いから始まる。


そこで思いついた脳内トークテーマがこちらである。


もし、正座という姿勢が人体の構造上、なんの負担もない姿勢だったなら、僕たちは百箇日で正座しているだろうか?


正座が胡座をかくのと同じくらい楽な姿勢であり、逆に胡座が正座するのと同じくらい大変な姿勢であったなら、僕はいま正座しているだろうか?


きっと正座していないだろう」が僕の答えである。


もし、人体にとって胡坐が大変な姿勢である世界線で祖父の百箇日をやっているなら、僕はいま胡座をかいて足をプルプルさせているはずである。

そもそもなぜ僕たちは、正座から礼儀正しさや、厳かさや、反省を感じ取っているのだろうか? それは正座というフォームそのものに本質的に備わったなにかを僕たちが感じ取っているわけではないだろう。「足が痺れる大変な姿勢である」というただそれだけの理由で、正座は礼儀正しい姿勢であるとみなされるのである。もし、正座が楽な姿勢であるなら、僕たちは正座している人を見ても礼儀正しさや、厳かさや、反省を感じ取ることはありえないはずだ。

その人が苦労していれば、僕たちは価値を感じる。逆に、なんの苦労もないのなら、価値を感じることができない。

僕はこの法則に、ほとんどの人間の価値論が当てはまると感じている。

たとえばなんらかのイラストを見て「あ、これAIイラストっぽいな・・・」と思った途端に魅力が感じられなくなる体験は、令和に生きる人間なら誰しも経験があるだろう。おそらく、生成AIという概念が登場する前に、同じ絵を見ていたなら、「素晴らしいイラストだ!」と感じていたであろうイラストですら、そこに苦労が込められていないと感じた途端に無価値に感じてしまう

ここで注意して欲しいのだが、僕はAIイラストの作成になんの苦労もないと言っているわけではない。一般的に「イラストを描くよりもAIイラスト生成は苦労が少ない」と考えられているというだけの話である。「考えられている」という点こそが重要であり、要はそこに込められた苦労の存在が知られているかどうかは、価値を論じるうえで極めて重要なのだ。

門外漢からすれば「はいはい、AIで一発で出力できるんでしょ? 簡単じゃん?」となるイラストも、生成AIに精通している人からすれば「なんだ…この複雑な動きと人体の表現は! 素晴らしい! いったいどんなスクリプトを入力しているんだ??」と感じられるケースは多々ある。

芸能人格付けチェックという番組が存在する理由はこれである。そのジャンルに精通していない人は、そこにどれだけの苦労が注がれているのかが理解できない。しかし、ワインの滑らかな口当たりを表現するためにどれだけの労力が必要かを理解している人は、1本1000円のワインと1本100万円のワインを見分けられる(もちろん、100万円のワインの方が人間の本能に訴えかけるうまさを備えているという可能性もあるわけだが、もしそれだけがすべてであったなら芸能人格付けチェックという番組は存在しないはずである。)。

しかし、よくよく考えてほしい。別にそんなものを見分ける必要はないのである。1000円のワインを「うまいうまい」と言って飲める方がコスパのいい人生を送れるわけだ。それなのに僕たちは「100万円のワインの価値がわかる」ということにも価値を見出している。これすらも「様々なワインを飲み比べ勉強をし、スキルを身に付ける」という苦労そのものに価値を感じている証拠であろう。


では人類は、苦労そのものに価値を見出すようなマゾ気質を捨て去るべきでなのか? その方があらゆるものごとを効率化し、幸福な人生を歩むことができるのだろうか?

そうではないだろう。苦労をかけたものをみて、愛でる。これを捨て去ったとき、人間がやることはほとんどなくなるだろうし、文化的な達成や進歩は即座に停止するだろう。

苦労を一切捨て去った人生など退屈以外のなにものでもない。一切の苦労がなくなったとして、僕たちはきっとなんらかの苦労を欲するようになる。

はじめて天ぷらをつくった人は、きっとベチョベチョの天ぷらをつくったはずだ。それを食べていた人がふと「もしかしたらもっとサクサクにした方がうまいんじゃないか?」と思いたち、苦労を重ねてサクサクの天ぷらをつくったはずだ。しかし、よくよく考えれば天ぷらはサクサクの方が美味しいと感じる合理的な理由はない。ベチョベチョの天ぷらの方が美味しいと感じられてもおかしくないはずである。なら、別に「ベチョベチョの天ぷらがおいしい」という価値観のまま生きていればよかったのである。しかし彼は苦労せずにはいられなかったから、わざわざ苦労をしてサクサクの天ぷらをつくったのだ。

そして、その苦労を背景に感じ取っているから、僕たちはサクサクの天ぷらがおいしいと感じている。このことを知ったからといって「天ぷらをサクサクに揚げるとか‥非効率っしょ! 適当につくってベチョベチョな天ぷらを食えばいいじゃんw 天ぷら屋はブルシット・ジョブww」などと言う人生が退屈であることは明らかである。僕はこれからもサクサクの天ぷらを心から欲するし、食べるし、ベチョベチョの天ぷらを「うわ・・・ベチョベチョだな・・・」と評価する。

手間がかかっていることは、価値がある(と僕たちが感じる)こととほぼイコールである。つまり無意味に苦労する正座のような営みを否定することは、サクサクの天ぷらの否定である。否定する必要はない、というのが僕の意見である。


とはいえ、これはブルシット・ジョブや無意味にうさぎ跳びを強要するような体育会系の肯定ではない。ブルシットな上司は、部下に何度も何度も無意味に修正させたパワポ資料を愛でる。仮にそれが、一周回って一度も修正させなかったパワポ資料と全く同じ内容になっていたとしても、何度も修正を経ていることによって上司にとって価値が倍増しているはずである。

このとき部下の方が「俺は何度も手間をかけることによって、上司がパワポ資料に感じ取る情緒を倍増させているのだ! それこそが俺にとって重要な使命なのだ!」と感じているのならなんの問題もない。好きにマゾヒスト的なプレイを楽しめばいいのである。

しかし、当たり前だが部下のほうはそうは感じていない。仮にそれが上司にとっての価値を高めることになるのだとしても、部下にとっての価値を高めることにはならない。ただ部下は価値を高めることのない無意味な命令に従わさせられているという感覚だけを抱き続ける。

意味のないことをやらなければならない。これ以上の精神的苦痛はなかなかない。けっきょくのところ、「そこに苦労を注ぐべき価値を感じられるかどうか」がすべてではないだろうか? もし注ぐべきであると感じるなら、人間はむしろそれをせずにはいられなくなる。

だから大人は足がしびれようが文句を言わずに正座をし、子どもは飽きてはしゃぎ始めるのだろう。大人は、故人や親族たちのために、故人をしのぶ儀式を成功させるべきであると感じていて、そのためには自分が正座をするという苦労を注ぐべきであると感じている。「いや、みんなで胡坐かこうや」とか「いやそもそもお経読む必要なくない?」とか「ていうか、法事いらんくない?」などとは言わないのである。そうすることに価値を感じているからだ。

しかし、新成人にビールの味がわからないのと同じように、子どもには法事に苦労をかけることのがわからないのだ。それに価値を感じている限りは正座はブルシット・ジョブではない。ただし、価値を感じていないのにそれを強制された途端に正座はブルシット・ジョブになる。その人の心ひとつなのだ。

人間っておもしろい。文化っておもしろい。そんなことを考えさせられた正座の時間であった。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!