Twitterとnoteの違い

しばらく更新が途絶えてしまった。別に忙しかったわけでも、ネタがなかったわけでもない。相変わらず本も読んでいたし、書きたいことはたくさんあった。

しかし書けなかった。頭の中には断片的な考えが漂っていたが、それらが全くつながらなかったのだ。

カッコよく言えば、これがスランプというものなのだろうか。

僕は曲がりなりにも文章を書くことを生業としているので、こういう趣味活動であっても、それなりに理路整然とした文書を書きたいと思っている。

だから、頭の中に浮かんだ考えに、説明や根拠、発展的な意見を繋ぎ合わせて、一本の文章に仕上げようと試みる。

しかしこの1週間は、それがうまくいかなかったというわけだ。

こういうとき、Twitterなら簡単に発信できるのになぁと思ってしまう。Twitterなら、一言か二言、思いついた言葉を、思いついたまま書けば成立してしまう。自分の意見について考察を深めたり、根拠を探したりする必要もない。結論だけ述べればいい。なんともインスタントなメディアだ。

noteではそうはいかない。それなりの長文をまとめようと思えば、思いついたことをそれなりに分析する必要がある。分析しているうちに過ちに気付いたり、論理的でないと気づくこともあるだろう。

これを読んでいる人は薄々勘づいていると思うが、僕はTwitterに否定的だ。

人が瞬間的に感じる感情とは、たいてい遺伝子に組み込まれた反射的な反応なんじゃないかと思う。あいつがムカつくとか、あれはけしからんとか、そういうやつだ。その手の感情を剥き出しにすることは、たいていトラブルのタネになる。

言うまでもなく最も望ましいのは、批判するにしても、文脈や事情、意図を考慮してから批判することだ。そのために必要なのは、瞬間的な感情に惑わされず、一歩踏みとどまって考える理性だ。

Twitterは、こういう理性を人から奪うことに関しては、これ以上ない仕事をしてくれた。だからあんなに炎上するんだろうなぁと思う。

だからと言って、「Twitterは感情のメディアで、noteは理性のメディア」と言うつもりはない。僕は感情というものの役割も理解しているつもりだ。感情がなければなんの意思表示もできないし、理性はそれを補う役割に過ぎない。

つまり僕が言いたいはTwitterは感情をそのままぶつけやすいメディアで、noteは感情を論理でこねくりまわすことになりがちなメディアということだ。僕は前者が嫌いで、後者が好き。これは感情だけれど、頑張って論理で説明してみたぜ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!