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【試し読み】逸木裕『彼女が探偵でなければ』冒頭30ページ公開

音楽の謎に挑んだ『四重奏』、人類が消失した終末世界を舞台にした『世界の終わりのためのミステリ』、VRゲームを扱った『銀色の国』など、さまざまな題材から精緻で美しいミステリを生み出してきた作家・逸木裕さん。そのデビュー作『虹を待つ彼女』で脇役として初登場し、やがてシリーズの主人公に成長したのが、探偵・みどりです。人の〈本性〉を暴かずにはいられない彼女が高校生から大人になるまでを描く短編集『五つの季節に探偵は』(角川文庫)と対になる、短編集『彼女が探偵でなければ』が刊行されました。かつて少女だった探偵が、探偵のまま大人になり、その人生を振り返ったとき。彼女が目にするものを、ぜひその目で確かめてください。

あらすじ

こうなることを知っていたら、わたしは探偵をやめていただろうか。
森田みどりは、高校時代に探偵の真似事をして以来、人の〈本性〉を暴くことに執着して生きてきた。気づけば二児の母となり、探偵社では部下を育てる立場に。時計職人の父を亡くした少年(「時の子」)、千里眼を持つという少年(「縞馬のコード」)、父を殺す計画をノートに綴る少年(「陸橋の向こう側」)。〈子どもたち〉をめぐる謎にのめり込むうちに彼女は、真実に囚われて人を傷つけてきた自らの探偵人生と向き合っていく。謎解きが生んだ犠牲に光は差すのか。痛切で美しい全5編。


『彼女が探偵でなければ』試し読み


時の子 ――2022年 夏


     

 目が覚めてから最初にすることは、部屋の電灯を消すことだ。
 この三年ほど、ずっと明るいところで眠っている。深く眠れたためしはない。
 カーテンを開けると、東向きの窓から夏の直射日光が入り込んできた。
 僕は顔を洗って水を飲み、一階に下りた。
〈九条時計店〉の中に入ると、大量の時計が僕を迎える。マイクロファイバーの手袋を嵌め、ショーケースの中にある懐中時計を手に取る。眠たい頭を抱えながら、僕はリューズを回しはじめた。
 時計は、密室だ。テン輪、ガンギ車、香箱、ヒゲゼンマイ……金属でできた様々な部品が、織り上げられるように小さく精緻なシステムへとまとまり、頑丈なケースに密閉される。外部から干渉されることのない密室で、システムは動き続ける。
 唯一、内部へのアクセスを許されているのが、リューズだ。回転させることでヒゲゼンマイが巻き上げられ、動力を内部にため込む。
〈九条時計店〉には、七十四個の機械式時計がある。リューズは急速に回すとほかの部品にダメージを与えるので、ゆっくり回す必要がある。ひとつのゼンマイを巻き上げるのに、最低十秒。七十四個巻き上げるのに、十二分二十秒。毎朝、自分の十二分二十秒を時計に捧げるのが、僕の日課だった。
〈面倒くさいなら、やらなくていい〉
 店中の時計のリューズを回す僕を見て、父は言った。両親が離婚したころだから、もう六年も前のことだ。
〈別に、だいじょうぶ〉
 そう答えたのは、強がりじゃなかった。リューズを回すのは好きだった。与えた力が時計に留まり、解放されることで時を刻み出す。自分が時計の精密な機構の一部になれたような気がして、嬉しかった。
 七十四個目の腕時計のゼンマイを巻き上げたところで、僕は店の奥に下がり、二階へ戻った。途中の窓から、朝日を反射してキラキラと光る広い諏訪湖が見える。〈九条時計店〉は長野県の上諏訪にあり、一階が店舗、二階が居住スペースだ。
 六十日前までここで、父とふたりで暮らしていた。
 いまは、僕ひとりしか住んでいない。
 父の部屋に入ると、正面に仏壇がある。飾られているのは、父が描いた時計のスケッチと、古いブレゲのクラシック。父はスケッチが趣味で、よく時計の絵を描いていた。ブレゲは、父が珍しく好んでつけていた時計だ。〈気に入った時計がないんだ〉と、父は時計師のくせに、あまり腕時計をつけることはなかった。
 僕はブレゲを手に取り、リューズを回した。七十五個目のゼンマイを巻き上げ、仏壇に手を合わせた。

 父の死因は、心筋梗塞だった。四年前から不整脈を患っていて、息切れや目眩がするようになり、ペースメーカーを埋め込もうとしていた矢先の出来事だった。
 期末試験の直前だったので、僕は試験をひとつも受けられなかった。夏休み明けに追試をやってくれるというので、このところは勉強に追われる日々だ。まあ暇だったとしても、特にやることはないけれど。
 午前を数学の勉強にあて、昼食に炒飯を作って野菜スープと一緒に食べた。少し休んでまた勉強をはじめようとしたところで、スマホに着信があった。
「瞬、元気?」
 母からの電話だった。高校に上がってからスマホを持たせてもらったけれど、連絡を取り合っている相手は母のほか、数人しかいない。
「元気だよ。いま、炒飯食べたとこ」
「野菜は食べてる? 肉とかお菓子ばかり食べてない?」
「野菜スープ、作り置きしてるから大丈夫。菓子とか嫌いだし」
「台風きてるでしょ? 戸締まり、しなさいよ」
「判ってるって」
 今日は朝から風が強い。関東地方を大型台風が直撃していて、その余波が離れた諏訪のほうまできている。
「……それで」
 母の声色が変わった。
「松本にくるって話、考えてくれた?」
「……うん」
 母は父と離婚したあと、故郷である松本市に引っ越し、いまはひとりで暮らしている。父はもともと住んでいた上諏訪に留まり、僕を引き取ったのだ。
「うん、って?」
「行くよ、松本に」
「なんだか、あまり乗り気じゃないみたい」
「そんなことないよ。ありがたいと思ってる」
「前にも言ったけど、高校出るまではうちにいていいよ。そこから先は、好きにしなさい」
 母は軽く、ため息をついた。
「今度こそ、普通の家族になろうね」
「……判ってる」
「同じことは繰り返したくない。普通の家族になって、普通の生活を送ろう? ね?」
「判ってるって」
「野菜、食べなさいよ」
 電話が切れると、風の音があたりに残った。窓を揺らす音は、ますます強くなっている。
 外の喧騒とは対照的に、僕の内側は静かだ。母に何を言われても、心は揺らがない。
 僕はシャーペンを持ち、数学の問題を解きはじめた。

 階下からチャイムが聞こえ、上半身を起こした。
 いつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。壁の時計を見ると、十七時になっている。
 もう一度チャイムが鳴る。ガタガタと窓を揺らす風の音は、ますます強くなっている。
 店はずっと閉じているので、客ではないだろう。たぶん、美桜がきたんじゃないか──重たい瞼をこすりながら、僕は階段を下りた。
〈九条時計店〉には表口があり、その脇に住居用の玄関がある。チャイムが鳴っているのは、そこからだ。ドアを開けると、外から塊のような風が吹き込んだ。
「こんにちは」
 立っていたのは美桜ではなく、見たことのない小柄な女性だった。童顔で、おっとりとした雰囲気だ。左手首に、大きなスマートウォッチをつけている。
「突然すみません。こちらのお店に用があって、伺ったんですが……」
「あ、いま、お休みしてるんです」
「お休み? もしかして定休日、ですか」
「いえ。父──店主が、死んでしまったんです。もうずっと店を閉めてて」
 女性は目を丸くした。変だなと、僕は思った。〈九条時計店〉にくる客層は二種類しかいない。九十パーセントが近所の人、残りの十パーセントが〈父の作る時計が好きだ〉というマニアだ。そのどちらも、父が死んだことは知っているだろう。
「あのー……どういった御用ですか?」
「九条計介さんに、時計のオーバーホールをお願いしたかったんです。わたしの父が、計介さんから時計をいただいたことがありまして」
「父の作った時計ですか?」
「はい」
 女性は小さなケースを取り出した。あまり見たことはないけれど、それが名刺入れだということくらいは判る。
「森田みどりと申します」
 肩書きの書かれていない、名前だけの名刺だった。

     

「心臓のご病気だったんですか、怖いですね……」
 みどりさんはそう呟いて、仏壇に手を合わせた。誰かが線香を上げてくれるのは、久しぶりのことだ。
 階下の店舗に向かい、机を挟んで座る。掃除はしているのだが、二ヶ月もシャッターが下りているので店内は湿った臭いがする。台風が過ぎたら、風を通したほうがいいかもしれない。
「そろそろオーバーホールのタイミングだからと、父から時計を預かってきたんです」
 みどりさんはそう言って、鞄から細長いケースを取り出した。開けると、中から腕時計が現れる。フェルトのシートに置かれたそれを見て、僕は興味を惹かれた。
 透明な時計だった。
 本来あるはずの文字盤がなく、何時何分なのかがパッと見て判りづらい。短針と長針の奥にむき出しの歯車が見える、いわゆるスケルトンの時計だけれど、特徴的なのは裏蓋もシースルーバック加工になっていることだった。時計越しに、敷かれたフェルトが見える。ケースやベゼルに使われているのは白磁のような白みがかったシルバーで、金属の部分が極端に細い。物体としての存在感が、極限まで削ぎ落とされている。風の中に手を突っ込んで、そこから抜き出したような時計だった。
「試作品だと聞いています」みどりさんが言った。
「仕事のお礼としていただいてしまったので、せめて定期的なオーバーホールはこちらに頼みたいと、父が言っていまして。以前お願いしてから三年が経ったので、持ってきたんです」
「失礼します」
 マイクロファイバーの手袋を嵌めて、時計を手に取る。
 意欲的な時計だ。引き算の美意識がデザインから感じられるし、トゥールビヨン機構が組み込まれているのに驚く。とても難度の高い仕様だ。
 父──九条計介は、時計師だった。
 時計制作の専門学校を卒業後、スイスに渡り、現地の時計メーカーに就職して〈時計の谷〉と呼ばれるジュー渓谷で働いていた。スイスでの仕事は楽しかったらしく、仏壇に飾られた写真も、レマン湖を背景に二十代の父が微笑んでいるものだ。メーカーの技師として制作や修理に携わりつつ、自分でも趣味の時計を作って暮らしていたと聞いた。
 母は輸入雑貨の商社で働いていた人で、スイスに赴任していたころに父と出会った。結婚して日本に帰ってきたのは、母が僕を身ごもり、日本での子育てを望んだからだ。父はジュー渓谷をあとにして、ここ上諏訪で国内の時計メーカーに転職した。でもその生活は、長くは続かなかった。
 時計を、シートの上に戻す。
「あの、間違っていたら、すみません」
 みどりさんの話を聞いていて、ひとつ思いあたることがあった。
「もしかして──時計をもらったお父さんって、探偵さん、ですか」
 みどりさんの目が、少し曇った。
 三年周期でオーバーホールをしていて、以前一度やったということは、この時計がみどりさんのお父さんの手に渡ったのは六年前だ。〈時計を世話になった探偵にあげた〉と、そのころに父が言っていた。
「嫌なことを思い出させたのなら、ごめんなさい。昔、わたしと父とで、計介さんの依頼を担当させていただいたんです」
 みどりさんはもう一枚、名刺を差し出してきた。今度は〈サカキ・エージェンシー〉という会社の名前が入っていた。
「父とは同じ会社で働いています。ちょうど別件で長野にくる仕事があって、それなら休暇ついでにオーバーホールに出してきてくれと言われていて。ごめんなさい、こんな話をするつもりじゃなかった」
「大丈夫です。別に、嫌なことなんか思い出してないです」
「ありがとう。気を遣わせちゃって、ごめんね」
 別に気を遣っているつもりはない。確かに探偵の調査で時期は早まったのだろうけど、僕の家庭は、いずれ崩壊していたはずだからだ。
 父は僕が三歳のころに時計メーカーをやめて、〈九条時計店〉を開いた。もともと極度にマイペースな人間で、日本でのサラリーマン生活は水が合わなかったらしい。〈自分の時計を本格的に作る〉──昔からの夢を叶えるために、時計店をやりながら個人制作もする生活に切り替えた。
 勝手な決断に怒ったのは、母だ。生活が一気に不安定になった上に、時計など作ったところで売れるかも判らない。ただ父は、他人の不満を聞くような人ではない。
 物心ついてから記憶に残っているのは、母が父をなじる声だ。どうしていつもそうなの。どうして私に言ってくれないの。どうして普通になれないの。僕たちは、壊れた時計みたいだった。歯車が全然噛み合っていなくて、抽象的な母の「どうして」は、ボロボロの機構が上げる軋み音そのものだった。
 離婚の原因は、母の浮気だった。〈探偵なんか雇わなくても、ひとこと言ってくれたら、いつでも離婚してあげたのにね〉。母は出て行くときに、呆れたように僕に言った。
「そろそろ、帰ります」みどりさんは時計をケースに戻した。
「そうだ。この辺に、美味しいお蕎麦屋さんはありますか。ホテルは取ったんですけど、あまり現地のことを調べてなくて」
「あ、それなら、いい店があります……」
 そのときだった。
 突然、視界が真っ暗になった。
 何の音も、衝撃もなかった。あたりは、外から吹きつける風がシャッターを揺らす音で満たされている。世界から光という概念だけが、一瞬でなくなってしまったみたいだった。
「停電……?」暗闇の中、みどりさんの声が聞こえる。
「電信柱でも倒れたのかな。それとも変電所に何かが……」
 みどりさんの声は徐々に小さくなり、やがて、何も聞こえなくなった。
 昏い。
 深い闇に、身体が侵食されている。視覚。聴覚。嗅覚。僕の感覚のひとつひとつに闇が入り込み、電源を落としていく。
 いや、僕のほうが、闇を侵食しているのかもしれない。肌。爪。髪の毛。僕の身体が少しずつ闇の中に溶け出して、消えていく。そんな感じもする。いつの間にか、僕は闇そのものと同化していた。空間中に広がる、虚ろな何かになっていた。
「九条くん?」遠くからみどりさんの声がする。
「どうしたの? 大丈夫?」
 闇の中に、小さな光が灯った。スマートウォッチの光のようだった。みどりさんは僕に近づき、肩を叩いてくれる。実感が伴わない。僕はそこにいながら、そこにいない。
 明かりがついた。
 電気が復旧したのだ。目の前に、みどりさんの顔があった。心配そうな表情で僕の目を覗き込んでいる。
「大丈夫? 停電、びっくりしたの?」
 深い眠りから目覚めきれていないように、上手く身体が動かなかった。言葉は頭の中に浮かんでいるのに、言えない。
「救急車、呼ぶ?」みどりさんの不安の色が、ますます濃くなる。
「ちょっと様子がおかしい。もしかして暗いところ、苦手だった? 救急車が嫌なら、近くのお医者さんとかに送っていくよ?」
「大丈夫、です」
 やっと、声が出た。
「ちょっとびっくりしただけです。もう大丈夫です」
「いや、とてもそんな風には見えないよ」
「本当に平気です。なんでもないですから」
「経験上、大丈夫じゃない人ほど、そういうことを言うんだけどな」
 みどりさんはスマホを出した。このままでは、本当に救急車を呼ばれてしまいそうだ。本当にこんなことは、なんでもないのに。
「暗闇が苦手なんです」
 仕方がない。あちこちで何度もしている話を、する必要がありそうだ。
「実は三年前に、暗い場所に閉じ込められたことがあって」
 みどりさんは目を丸くする。僕のことを心配してくれる、母性のようなものを感じた。
 あちこちでしているけれど、母にしたことはなかったなと、僕は思った。

     

 父は、上諏訪の市街から霧ヶ峰に上っていく途中に、小さな工房を持っている。
 時計制作には専門的な工具が必要だ。父は空き家を買い、フライス盤や旋盤などを持ち込んで、時計を作りはじめた。独特の美意識を持つ父の時計には熱心なファンがいたものの、時計が完成品として売られることはほとんどなく、試作品を作っては知人に譲るといったことをやっていたので、ほとんど儲けはなかったみたいだ。
 工房の庭に、小さな防空壕がある。
 諏訪は太平洋戦争のころ疎開地とされていて、あちこちに防空壕が作られていた。結局空襲がくることはなく、いまではほとんどが跡形もなくなって、残っているのはいくつかだけだ。
 父はその中に入るのが、好きだった。
 もともと携帯電話も持っていない人だったけれど、防空壕に入るときは時計すら持たず、完全に身ひとつで過ごしていると言っていた。父は常に時計に囲まれていた。たぶん、そういうものから完全に解放される時間が、必要だったのだと思う。
 ある日のことだった。
 僕はひとりで工房に向かっていた。十五分ほどバスに乗り、そこからまた十五分歩き、脇道を二十メートルほど進んだ先の山沿いの土地に、工房はある。父の姿は見えなかった。時刻は十五時ごろ。僕はその足で、防空壕に向かった。
 防空壕は、地下に向かって掘られていた。しっかりした造りで、わずかに傾斜をつけた地面に木の枠と扉があり、開くと地下へのスロープが延びている。そこを下った先に、六畳ほどの空間がある。もともと掘られていたものに父が長年かけて手を入れていて、床も壁も天井も木で補強されていた。
 中には、小さな折りたたみ椅子が置かれていた。広げて腰を下ろすと、痛いほどの静けさに包まれた。
 真っ暗だった。
 静かな闇に包まれ、自分の奥底の強張っていた部分が安らいでいく。防空壕の中にいると、普段の自分が否応なく世界とつながっていることに気づかされる。すべてのしがらみから切り離され、僕はあたりの静寂に溶けていく。自分が自分でなくなるような自傷めいた快感が、深い闇の中にあった。
 どれくらいそこにいたのだろう。少し眠っていた気もする。
〈瞬?〉
 入り口から声が聞こえ、僕は顔を上げた。
〈どうしてここにいる?〉
 父がやってきたのだ。僕は慌てて、椅子から腰を上げた。
 言葉自体の強さに反し、父の声に僕を責める色はなかった。スロープを下って、防空壕の中に入ってくる。僕は立ち上がり、外に出ようとした。
〈別にいたいのなら、いてもいい〉
 父は僕を制するように言った。
〈気が済んだなら出て行けばいいし、俺に遠慮する必要はない。好きにしなさい〉
 父はそう続けると椅子に座り、すべての力を抜いたように沈み込んだ。
 ──僕たちは、違う時間を生きている。
 大切にしている場所に勝手に踏み込まれたというのに、父は苛立ちひとつ見せない。同じ場所にいるのに、違う時間の中にいる。父と一緒にいると、よくそんな感覚に陥る。
 六歳ごろの出来事を、僕は思い出していた。
 僕は父と母と、回転寿司を食べに行った。父は食事に興味のない人間で、家族全員で外食に行くことなどほとんどなかった。たぶん母が、一家団欒をせがむ形で実現したのだと思う。
 初めて入った回転寿司店は、遊園地みたいで面白かった。寿司も美味しかったけれど、僕は店内を巡る巨大なベルトコンベアに惹かれた。あちこちにコーナーがあるのに、ベルトがスムーズに回転していく──いまはその理由を〈ベルトが角丸の形をしていて、コーナーにフィットするように曲がるからだ〉と答えられるけど、当時はまるで魔法を見せられているように不思議だった。
 そんな楽しい会をぶち壊したのは、父だった。
 父は寿司を三皿ほどつまんだあと、なぜか手帳を取り出して、回転している寿司の模写をはじめた。〈何やってんの〉〈恥ずかしいよ〉〈そんなことやるなら、もう帰って〉。母が何を言っても、父は聞こえていないみたいに、絵を描き続けていた。〈あんたに期待したのが馬鹿だった〉。母は最終的にそう吐き捨て、僕の手を引っ張って店を出た。
 暗い防空壕は、あの回転寿司の店内と同じだった。父の周囲にはいつも、違う時間が流れている。時計の内部に干渉できないように、誰もその中には入れない。たとえ家族であっても。
 そのときだった。
 防空壕の扉の向こうで、何か大きなものが滑り落ちるような音がした。
〈なんだ?〉
 深い闇の中、父が立ち上がり、スロープを登って出口のほうへ向かった。
〈扉の上に、何かがある〉
 扉はわずかに傾斜して、こちらに覆いかぶさるように作られている。父が押し上げようとしたが、びくともしなかった。
〈地すべりか……?〉
 僕は父の隣に立ち、一緒に扉を押し上げた。その瞬間、隙間からパラパラと土砂が落ちてきた。工房の庭は、山沿いにあった。崖から土砂が滑り落ち、出口を塞いでしまったのだ。その日は晴れていたが、それまでに長雨が降っていたりすると、雨を吸収した地面が地すべりを起こすことがある──あとで調べて得た知識だった。
 僕たちは、閉じ込められた。
 父は携帯電話を持っていない。防空壕の中に入るときは、時計すら持ち込まない。僕もそれに倣い、手ぶらで入っていた。
〈叫ぶな〉
 助けを呼ぼうとした僕を、父は鋭く制した。
〈どうせこのあたりは、人は通らない。酸素が無駄になる〉
 隣家は遠く、大声を出したところで届く距離ではなかった。
 先ほどまで安息を覚えていた闇が、牙を剥いた気がした。父は僕に注意をしただけで、もう何も話そうとしなかった。再び自分の時間の中に、入ってしまったみたいだった。
 意識が、薄らいでいく。
 恐怖が、心を侵食する。いくら押しても扉は開かない。周囲に家はなく、助けを呼ぶこともできない。水や食料を調達する手段はなく、そもそも酸素がどれくらい持つのかも全く判らない。
 巨大な時計の中にいる気がした。
 時計は密封されていて、アクセスするためのリューズすらこの空間には存在しない。ゼンマイを巻き上げない時計は、やがて止まるだけだ。僕は、ここで死ぬ。巨大で静かな、時計の中で──。暗く狭い密室で永遠に駆動し続ける歯車の孤独が、判った気がした。
〈瞬〉
 不意に、温かいものが僕を包んだ。
 父が僕を、抱きしめてくれていた。
 濃い黒に塗りつぶされ、父の姿はよく見えなかった。闇に抱かれているような気がした。
 父は僕の肩に顎を乗せ、強く抱きしめてくれていた。その少し不自然な姿勢に、父の無器用さを感じた。首元から、銅の匂いがした。時計師の肌は、金属の匂いがする。染み込んでいるので、洗っても拭っても落ちない。
〈寝るな〉
 闇の中から、囁かれる。
〈眠ってはいけない。静かに、じっとしていなさい〉
 言われなくとも、眠気はこなかった。
 闇と同化するように、僕たちはその場に佇み続けた。

     *

「……それで、どうなったの?」
 みどりさんは、僕の話に興味を覚えたみたいだった。わずかに前傾姿勢になっている。
「何時間かして、近所のおばあさんが通りかかったんです。その人が、助けてくれて」
「でも、隣の家までは離れていたんだよね? どうして君たちが閉じ込められているって判ったの?」
「父が呼んでくれたんです。通りを歩いているおばあさんに、声をかけてくれて」
「さっきの話だと、通りまで二十メートルはあるんだよね。なんでおばあさんが歩いているって判ったの?」
「静かでしたし、気配を察知して呼んだんだと思います」
 僕はあのとき、思いのほか疲れていたのだろう。頑張って起きてはいたのだがいつの間にかぼんやりしていたようで、父が叫んでいた記憶はあるのだが、なんとなくしか覚えていない。外からおばあさんの声が聞こえたあたりで失神し、気がつくと消防団の人に助けられていた。
 おばあさんには一度、父とお礼を言いにいった。農業をやっている八十歳くらいの人だった。三年前は元気だったけれど、去年、感染症で亡くなってしまったと聞いた。
「助けられたのは、何時くらいの話?」
「夜です。正確な時間は覚えてないですけど」
「防空壕に入ったのは、十五時くらい?」
「ええ、さっき言った通りです」
「土砂崩れは、ひどいものだったの?」
「いえ、規模は小さかったはずです。工房も無事でした」
 みどりさんがしつこく質問を繰り返すのが、少し気になった。この話にはこれ以上の続きはない。ほんの数時間閉じ込められ、そこから助け出されて、僕は暗闇が苦手になった。それだけの話だ。
 いくつかの置き時計が、一斉に鳴りはじめた。
 鐘を打つ音。カッコウを模した音。毎時ゼロ分になると、〈九条時計店〉は賑やかな音で満ちる。もう十八時だ。
「君は、お父さんに似てるね」
 みどりさんの言葉に、耳が引かれた。
「雰囲気が一緒だよ。すごく静かで、安定してる。トラウマになった出来事を話すときも、さっき停電になったときもそう。防空壕の中でも、きっと落ち着いていたんだね」
「もともとの性格なんです。変ですか」
「変じゃないよ。どっしりしている人のほうが、頼りになる。学校でも人気あるんじゃない?」
 僕は首を振った。あまりそういうことについて話す気分じゃなかった。
「今日は色々と、ありがとう」みどりさんは、鞄を肩にかける。
「最後に、聞きたいんだけど──美味しいお蕎麦屋さんは、どこにあるのかな」

     

 翌日、僕は店のリューズをすべて巻き上げたあと、父の時計を見ていた。
〈少し手元に置いておく?〉と、みどりさんが置いていってくれたのだ。
 文字盤がなく、裏蓋までがガラス張りになっているので、内部の機構がすべて見える。左側に調速機と脱進機が格納された円形の 籠 があり、それが丸ごと、地球が自転するように滑らかに回っている。最高難度の機構と言われている、トゥールビヨンだ。美しい。いつまでも見ていられる。
 子供のころから、時計の機構が好きだった。
 父はジャンク品の腕時計や懐中時計をたくさん持っていた。それらを分解し、また動くように組み立て直すことが、幼かった僕にとっての最高の娯楽だった。
〈テレビゲームとかに夢中になるより、よっぽどいいわね〉
 母は嬉しそうに言っていた。〈パパに似たんだろうね。教えてもいないのに同じものに興味を覚えるなんて、親子って面白いわね……〉。母は、僕と父の間にある、見えない絆を想像するのが嬉しかったのだろう。親子が自然と似ることが、母にとって家族を感じられる瞬間だったのだと思う。
 でもそれは、的外れだと思っていた。
 僕は時計以外にも、色々なものを分解してたからだ。電動鉛筆削り。カセットデッキ。壊れたドライヤー。動かなくなったノートパソコン……要するに僕は、機械を動かすシステムに興味があったのだ。母は〈時計が好き〉という曖昧な共通項で僕と父をくくっていたけれど、僕の興味はもっと広範な対象に向けられていた。
 父は、時計を好きだったのだろうか。
 ずっと時計師を仕事にしていて、こんなにも精緻な時計を作ってしまえる人だ。嫌いだったはずがない。でも、父から時計への執着や愛を聞いたことはない。僕が時計を分解していても、父は関心を示そうとすらしなかった。〈いい職人は、いつも静かだ〉。時計を分解する僕に父が語ったのは、その一言だけだ。
 トゥールビヨンは回転する。透明な時計の中で、虚空に滑らかな円を描く。文字盤のない時計は、短針と長針が何時何分を指しているのか判りづらい。それでも、複雑な機構を含んだこの時計を見ていると、引き込まれるようだ。裏蓋を開けて、内部を触ってみたくなる──。
 僕はそこで、時計をケースにしまった。
 この三年ほど、時計の分解はしていない。もうやらないと決めたからだ。
 僕は朝食を作るために、腰を上げた。
 そこで階下から、玄関のチャイムが鳴った。
「おはよ」
 ドアを開けると、美桜が立っていた。美桜は陸上部で短距離走をやっているので、夏の時期はいつも肌が浅黒く焼けている。
 台風は遠ざかり、空は抜けるような青空だった。穏やかな風が、諏訪湖のほうから吹いてきている。
「これ、パパから」
 重箱を差し出される。開けると、海老やかぼちゃの天ぷらが入っていた。美桜のお父さんが作る天ぷらは絶品で、冷めても衣がさくさくとしていて美味しい。
「〈お客さんを紹介してくれてありがとう〉って言ってたよ。〈俺も、時計を買う人を紹介してあげたいんだけど〉だって」
「ありがたいけど……いま時計屋は休業してるから、紹介されても何もできないよ。それに、時計は高いし……」
「冗談だよ。真面目だな」
 美桜の実家はここから歩いて五分のところにある、〈いわさき〉という蕎麦屋だ。創業八十年の老舗で、昨日みどりさんに薦めたのもこの店だった。
 美桜は、別の紙袋を渡してくる。見ると、ラップに包まれたおにぎりが四つも入っていた。
「ありがとう。これもお父さんから?」
「違うよ。私が握ったの」
「そうなんだ。ありがたいけど、四つも食べれるかな」
「半分は私が食べるんだよ」美桜は呆れたように言った。
「湖、行こうよ。散歩しよ」
 岩崎美桜は幼馴染みで、高校の同級生でもあった。たまにこんな風にやってきては、散歩に行こうと誘ってくる。お互い、空気みたいな存在だ。特に話もせずに、一緒の空間にいられる。
 向こうに、諏訪湖が見えてきた。
 時計は気候の変化に弱いので、涼しいところで作られる。スイスのジュー渓谷が〈時計の谷〉と言われるのは、気温と湿度が低く、部品を清掃するための清水をレマン湖やジュー湖から大量に確保できるからだ。
 ここ諏訪も〈東洋のスイス〉と呼ばれるほど、時計産業が栄えている。標高の高い場所にあり、諏訪湖が街の中心に広がっているからだろう。ただ諏訪湖は水質が悪いことでも有名で、目の前に広がる湖は〈スイス〉という言葉には似つかわしくないほど濁っている。〈俺の中の湖のイメージが汚れる〉と、父は近づきもしなかった。
 湖を見渡せるベンチに並んで座る。子供のころは藻の臭いが漂っていて嫌だったけれど、最近は浄化されつつあるのか、湖畔にいても嫌な臭いはしなくなった。僕はおにぎりを頬張った。程よく冷めたご飯の甘みと、焼いた明太子の旨味が、口の中に溢れかえった。
「昨日紹介してくれたお客さん、誰?」
 おにぎりを頬張りながら、美桜が聞いてきた。
「探偵だって」
「探偵?」
「うん。母さんが離婚したときに、調査した人だって」
「なんでそんな人が、いまさら来るの?」
「父さんが、作った時計をお礼にあげてたみたいで、オーバーホールしてほしいんだって」
「瞬にはできないの? オーバーホール」
「無理だよ。時計師じゃないし」
「あんなに山のように分解してたのに、無理なの?」
「あの時計、トゥールビヨンなんだ」
 時計作りにおいて問題になるのが、重力の存在だ。
 機械式腕時計の中にはヒゲゼンマイという部品が入っていて、巻き上げられたゼンマイの力が規則正しく解放されることで、時計の針が動く。
 ただしこの部分は非常に繊細で、わずかな重力が動作に影響を与えかねない。トゥールビヨンは〈時計の歴史を二百年早めた〉と言われるアブラアン=ルイ・ブレゲが開発した機構で、重力を平均化するために調速機と脱進機をキャリッジに格納し、それを丸ごと回転させることで……。
「瞬」
 説明の流れを断ち切るように、美桜が声を上げた。
「礼子さんから、話、聞いてる?」
 突然出てきた母の名に、僕は言葉を止めた。美桜は、覚悟を決めたような口調になっている。どうやらこの話をしたくて、僕を誘い出したらしい。
「松本市で一緒に暮らさないかって、言われてるんだよね? どうするの?」
「誰から聞いたんだよ、そんなこと」
 我ながら馬鹿な質問だった。母から直接聞いたに決まってる。一時期近所付き合いのあった母と美桜は仲がよく、いまでも連絡を取っているのだ。
「行ったほうがいいよ。松本に」湖を見つめながら、美桜は言う。
「高校生があの家にひとりで暮らすなんて、無理だよ。行く先がないならともかく、礼子さんは来てもいいって言ってるんでしょ? 甘えてもいいんじゃない?」
「うん。まあ……」
「私、瞬のこと、ずっと心配してる」
 美桜は、強い口調になる。
「お父さんのことを悪く言いたくはないけど……計介さん、まともな大人じゃなかったよね。時計を作るために山奥にこもったり、お店も開けたり開けなかったり……離婚するって聞いたとき、瞬は礼子さんについていくと思ってた。なのに、あそこに残って……」
「別に、残りたくて残ったわけじゃない。母さんが僕をいらないって言ったんだよ」
「でもいまは、受け入れてくれるって言ってるんでしょ? 人は変わるものだよ。瞬も、変わらないとね」
 ふと、湖の右手を、遊覧船が動いていくのが見えた。
 諏訪湖を一周する二階建ての遊覧船で、夏休みということもあって、昼前にもかかわらず甲板は大勢のお客さんで賑わっている。
〈時間とは何か。判るか、瞬〉
 ふと、父からそんな話をされたことを思い出した。時間とは何か──哲学的な命題だ。
〈時間とはって……時がどれくらい進んだかの量、ってことでしょ?〉
〈じゃあ、時とはなんだ? 時は見えないし、触れない。本当に時などというものは、存在するのか。時とは、人間が勝手に作り出した妄想じゃないのか〉
〈難しくて判らないよ〉
〈じゃあ人間は、何によって時を感じていると思う?〉
〈……時計?〉
〈違う〉
 そうだ。あのとき父は珍しく、嫌っていた諏訪湖の湖畔にいたのだ。ベンチに座り、スケッチブックに絵を描きつけていた。防空壕に閉じ込められて、しばらく経ったころだった。
〈反復だ〉
 父は、そう言った。
〈人類が最初に時間の概念を見つけたのは、一日の反復だった。日が昇って、沈む。それが延々と繰り返される。天体の運行から時間が発見されたから、時計と天文学には、密接な関係があった。反復の中から人類は時間の概念を獲得して、より細かい単位に刻んでいった〉
 砂の落下、振り子の振幅、クォーツの振動……人間はより正確な反復をもとに時を細かく刻んでいき、いまはセシウムが決められた回数振動した長さが〈一秒〉だと決められている──父は、独り言のように言っていた。
〈時は遍在していて、我々はそれを観測できない。反復する何かが存在することで、人間は初めて時を感じることができる〉
 父とそんな話をしたのは、初めてだった。スケッチを描くペンは止まっていた。父にとって大切なことを言っているのだと思った。
〈だから俺は、時計を作ってる〉
 父は、言った。
〈人間は時を観測する必要がある。どうせ時を刻むのなら──〉
「瞬」
 鋭い声がした。
「どうしていつも、自分の世界に閉じこもっちゃうの? 私は真剣に話してるのに……」
 美桜が不快そうな表情で、僕のことを睨みつけていた。
「ごめん」
「口先だけで謝らないで。いくら言っても、何も変わらなかったくせに」
「うん……」
「もう一度聞くよ。明日の午後、時間もらえない?」
 気がつかないうちに、そんなことを言われていたようだ。
「十二時に、うちの店にきて。天ぷらそば、おごってあげるから」
「なんで? 用があるなら、いまでいいじゃん」
「とにかくきて。さっきのことは、それで許してあげる。謝るなら、行動で示して」
 なんだろう。美桜からこんな形で呼び出されるなど、初めてのことだ。
 美桜は立ち上がった。高校に練習に行くのだろう。
 九月に新人戦があるらしく、追い込みの練習をしていると言っていた。来年の総体に出ることを目標に、食事管理とトレーニングを積み重ねているとも。ひとつの目的のために生活の隅々までをコントロールできる彼女に、父はだらしない人間に見えていたに違いない。
「そうだ」思い出したように、美桜は言った。
「言おうと思ってたんだ。昨日のお客さん、ちょっと変なことを言ってた」
「お客さんって……僕が紹介した人?」
「そう。〈九条さんの工房はどこにあるのか〉とか、〈防空壕はまだあるのか〉とか」
「防空壕?」
 僕は首をかしげた。閉じ込められたときの話に食いついているとは思ったけれど、やけに興味を惹かれているみたいだ。何がそんなに、気になるのだろう。
 美桜は「じゃあね」と言うと、ゆっくり歩いて去って行く。遅筋が優位にならないようにと、なるべくジョギングをしないようにしているらしい。本当に美桜は、ちゃんとした人だ。
 湖を見た。遊覧船は遠くに去り、ほとんど見えなくなっていた。


(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:彼女が探偵でなければ
著者:逸木 裕
発売日:2024年09月28日
ISBNコード:9784041134771
定価:1,980円 (本体1,800円+税)
ページ数:336ページ
判型:四六判
発行:KADOKAWA

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