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「死に慣れたいけど慣れたくない」な話

先日、私の尊敬する方が他界されました。

実際にお会いしたのはただの一度で、きちんとお話したことはありませんでしたが、活きる灯台となる方でした。また、とあるコミュニティのハブとなられる存在で、私を含め多くの人々にとって心の支えでした。

私が思うその方の印象は、若者の希望をだれよりも信じ、非常に熱い志と燃えたぎるハートをお持ちだった”かっこいい大人”
「人は変わることができる」と心の底から信じておられた方。
私がこれまでの人生を受容し、新たな人生を切り開くきっかけをくださった、大変ご恩があり師と仰ぐお方です。

私のようなものが生前のご様子をここに記すにはあまりにもおこがまく思いますので、このあたりで。
お悔やみ申し上げますとともに、心よりご冥福を申し上げます。

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ふと、死に慣れることなど、生涯できないのだろう、と思った。

どれだけ年を重ねようと、どれだけ多くの人を見送ろうと、きっと慣れることはない。死の痛みを分かち合う方法や、紛らわせる方法、癒す方法を学んでいくだけなのだろう、と思った。

「~を見守るように」「きっと~だろう」「今ごろ天国で~」…という風に、死や死後の世界に意味や理由を見出そうとする。

それを生きている他者と分かち合うことで、手を取りあい慰め合おうとする。

目の前の忙しさに体を任せ、一時でも傷から目をそらそうとする。

このようにして、死に対する免疫や耐性といった言わば護身術を会得していくのでしょう。これは決して、慣れるということではない。いつだってお味用に、いやそれ以上に、傷ついている。心が痛んでいる。穴が開いている。ただ、傷の治癒力の問題なのである。

いやむしろ、傷を背負ったまま生きていくのかもしれない。
生傷をさらしたまま、明日もそれぞれの日常を生きていかなけらばならないのかもしれない。
それが大人になるということなのかもしれない。

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自分が年をとればとるほど、多くの人を見送らなければならないと思うと憂鬱で心が重たくなります。
その人の死を疎む気持ちと、自分がまた傷つくことを疎む気持ち。
その人を失った喪失感や虚無感に加え、残された人々が悲しんでいるとこに立ち会うことも、心苦しい。実はこれが一番ネックだったりする。


人が死ぬのは、しんどい。

しんどいことは嫌だ。慣れたら楽になるかもしれない。
だけど、どうしても慣れたくはない。
たとえ慣れることができたとしても、慣れたくはない。

きれいごとのように聞こえるかもしれませんが、
"命に疎い自分ではいたくない"というしがなわがままです。

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師が天国へ召されたにもかかわらず、このようなことを考えてします。
私はいつも当事者にはなれない。自分が何を考えているのか分からなくなる。自分がここにいるのに、まるでいないような心地。

自分の気持ちよりも、周りが傷ついている様子に気を取られてしまい、自分がどう感じているのか分からなくなる。

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おやすみなさい。

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