ジラ谷さんのツイートから見えてきた反論の重要性について

なんでも疑うってことは思考力が磨かれる。

それってなんでだろう?

自分が興味のある分野やジャンルを学ぶ
       ⇩
好きなものは無意識に受け入れてしまう
       ⇩
結果として思考を挟む余地がない
       ⇩
以下ループ

このような流れが起こるからではないかと思う。

逆に嫌いなものの場合

自分の興味のない分野やジャンルを学ぶ
      ⇩
嫌いだから頭に入ってこない
      ⇩
思考もしたくない
      ⇩
以下ループ

この流れだといずれ挫折する。
思考力を養うと言う意味では難しい。


そこで疑問を挟むことをいちいちするが効果的だと思う。

要するに

自分の好き嫌いに関わらず、自分なりの疑問を挟み込むことで思考が起こる

思考が起これば、疑問が生まれて思考しての繰り返しになる。

また別の方法で

ある主張に一旦認めている認めていないに関わらず、反論を試みる

これもアリだと思う。

反論は一旦その情報を理解出来ない。思考を挟まないとそもそも反論自体が難しい。信じている内容でも一旦は反論してみるといいかも。

最初の頃の反論は粗探しになりがちです。
でも、別にそれでも構いません。
思考力がない状態ではそれが最初の壁になるから。

極論を言うといちゃもんでもいい。
これは人に見せない状態でやった方が無難ですね。
相手を傷つけてしまうようなことを避けるため。


ジラ谷さんのツイートを例にすると
       ⇩
信じ込むだけでは思考力が磨かれない
       ⇩
本当にそうなのかな? ←疑問を挟む 1回目
       ⇩
信じるだけなら確かに楽な気分になれるし、物知りになった気持ちで気分がいい
       ⇩
でも本当に物知りっていいの?楽な気分のままでいいの?←疑問を挟む 2回目
      ⇩
物知りってものを本当に知っているわけじゃないよね。
物事のラベルの部分を見ているだけ。
中身の部分を見ていない。
楽な気分のままでは負荷がかからないから成長にもつながらない。

このような流れで疑問を挟むを実演してみたけどどうだろう?

多少強引になったけど、疑問をいちいち挟むことで考える行為が生まれる。
だから、思考を強制的にするためには反論をしてみるのもいいと思う。
むしろ世の中の常識に対して反論すべき。

もちろん、喧嘩腰になるとかではない。
人格を認めないわけでもない。
礼儀礼節は重んじながらも、反論することが大切ですね。


まとめると

世の中の常識をなんでも疑ってみる
思考が生まれる
疑わないと考える機会が失われる
反論してみよう
ただし、人格否定などの礼儀礼節を守らないことはいけない。
あくまで意見に対して疑問を抱くだけ

こんな感じになるかな。

軽く書いてみたけど反論は難しい。
特に自分の好きな人や情報では反論って難しいですよね。

反論してみてやっぱり納得したでも納得できないなあと感じても
それはそれでいいんですよね。
疑問を挟むから。

このようにジラ谷さんのツイートから思ったことをつらつら書いてみました。

今日からでも反論する、疑問を挟むや
ジラ谷さんのツイートでも書いてある通りになんでも疑ってみるも良いです。

実践してみてください。

ではまた別の記事で!



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