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“椎名誠”は、今でもぼくのヒーローなのだ。

『遺言未満、』を読む前にこの本を読んでおこうと思った。


椎名 誠著『ぼくがいま、死について思うこと』


えーっ、こんな書き方ありなの…?!
『新橋烏森口青春篇』『哀愁の街に霧が降るのだ』を読んで、いや、そのタイトルを見た時にそう思った。

バカボンのパパの「それでいいのだ」がそこにあった。
安くない製作費をかけてプロである編集者が創る椎名さんの本には、超極私的“それでいいのだ!”が溢れていて、人生、そんなに難しくはないのかもしれないと思わせてくれた。
そうか!これでいいんだな。じゃあ、遠慮なく、どーんっといったります。そんな感じ。

本書の元になった単行本は、2013年椎名さんが68歳の4月に出ている。
椎名さんは、ぼくと同じ68歳の時に、死についての本を出版し、2021年のいま、76歳になっている。
ぼくのヒーローは、いつの間にかおじいちゃんになっていた。
当たり前のことだし、次はぼくが正真正銘のおじいちゃんになるので、それでいいのだ。

椎名誠さんは、世界中の辺境という辺境を旅してきたひとだ。
辺境旅の合間には、友人たちと日本の無人島なんかに出かけて行って、ただ焚火を囲んで大酒を飲む。カヌーも、釣りも、三角ベースも、遊びという遊びを本気の本気でやっている。そのあたり、さすが我がヒーローなのだ。

旅する作家には、旅そのものを考察する作家と、ここではないどこかに身を置いて、自らの深部に降りていき、端座して森羅万象、その中の自分を考察する作家がいる。
                                  開高健さんがそうだし、椎名誠さんもそうだと思う。
開高さんがベトナム戦争の最前線で、比喩ではなく本当に消えかかった己がいのちと引きかえに垣間見たものを、椎名さんも辺境の旅でのぞいている。
死は、戦場にも、辺境にも、開高さん、椎名さん、そしてぼくらの日々にもちゃんとある。

チベットの鳥葬、モンゴルの風葬の体験談には、燃やす樹々が生えていないから火葬出来ないという、ちょっと拍子抜けするような納得話が出てきたりしてなんかほっとする。
                                  モンゴルの風葬は、研究者の言によると日本語で言うところの“野ざらし”のこと。
特に小さな子ども、胎児の場合、父親は袋に入れた亡骸を、ゲルからそうは遠くないあたりに置いてくる。
袋の口をすこし開いておくのは、親族以外のひとが開け易いように、あるいは動物が亡骸を食べ易いように。
椎名さんは、父親にとって慟哭の儀式だと書いているが、死者の復活、再生を願う大切な仕来りなのだそうだ。

本書には、他にも土葬、水葬、樹葬のこととか、椎名さんの親しい方々の死が語られているが、ご本人の死について68歳時点の椎名さんは、うっすらぼんやりとしか書き残していない。

2020年12月に発刊された『遺言未満、』を読む前に、本書を読んでおこうと思ったのは、いまのぼくと同世代だった椎名誠が自分の死をどう捉えていたのか知りたかったからだ。

でも、答えは見当たらなかった。“見当たらない”ということが見当たった。


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