【長崎】第2回 日本の産業革命を牽引した?


「明治日本の産業革命」と長崎  

長崎で有名な観光地の1つに、「グラバー邸」があります。また、「軍艦島」も一度は目にしてみたいです。実はこれらは、2015年に登録された世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に含まれます。多くが含まれるこの世界遺産ですが、長崎県では8つ含まれています。今日は、「明治日本の産業革命とは?」「その頃、長崎はどのような場所だったのか?」を探っていきたいと思います。(下の写真はグラバー邸で見られるハートの石です。見つけてみてください。)

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明治時代に進んだ「日本の産業革命」ですが、実は細かく見ていくと、軽工業が発展した「第1次産業革命」重工業が発展した「第2次産業革命」があります。順に説明していきます。



まず、「第1次産業革命」です。明治政府は、欧米列強に負けない国をつくるために「殖産興業」を進めました。この過程で富岡製糸場(群馬県)が造られるなど、「工場」「機械化」「蒸気機関」の3つを代表するように、繊維工業や紡績業などの軽工業が発展します。生産された綿糸は、中国を中心とするアジアへ輸出されるようになります。これが「第1次産業革命」です。


その頃、日本は日清戦争で勝利し、清(中国)と下関条約を結び、賠償金2億両(2億テール、約3億1000万円)を手にします。この資金を活用して、官営の八幡製鉄所をつくり、1901年から操業を開始します。ここでは中国から輸入した鉄鋼を用いて、重工業発展の礎を築きます。


その後、1905年に日露戦争に勝利した日本は、ますます勢いをつけます。戦争によって手にした満州の鉄や石炭資源を活用し、製鉄や車両、造船、機械などの生産を進めていきます。これまでの流れからも明らかなように、軍備拡張を目指す政府は、軍艦や兵器の製造にも力をいれるようになります。このようにして、重工業が発展したのが「第2次産業革命」です。

この「第2次産業革命」を牽引したのが、長崎をはじめとする「明治日本の産業革命遺産」です。

「軍艦島」(正式名称は「端島」(はしま))には、当時最大で5000人以上の人々が住み、炭鉱都市として栄えました。当時の人口密度が東京23区の9倍であったことからも分かるように、多くの人々が軍艦島で日本の重工業へ貢献したと言えます。(下の写真、軍艦に見えますか?)

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軍艦島は現在、相次ぐ台風や大雨などの被害により、遺産の損傷が激しく、長崎市は総額108億円の予算を組んで、保存を進めています。遺産の状態によっては、上陸できないということもありますので、事前にホームページ等で確認をしてから訪れてみてください。


前回は、江戸時代の鎖国でも海外との窓口であり続けた長崎ですが、明治時代には重化学工業を牽引し、産業革命に大きく貢献しました。近世・近代と日本の歴史の表舞台に立ち続ける長崎。いよいよ次回(第3回)は最終回、被爆都市としての長崎です。楽しみにしていてください。

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