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【P-001】昭和時代の悲劇のプロレス団体 国際プロレス

日本のテレビ発展、普及に貢献したコンテンツでプロレスを外すことは出来ません。‘昭和’や‘戦後’を語る際に、「力道山」、「プロレス」、「街頭テレビ」は必須ワードです。

日本でのプロレスの興行は、力道山が最初ではありませんが、新興メディアのテレビと組んだことで、一気に頂点に上り詰めます。力道山のマーケティングセンス、行動力によって日本にプロレスが普及し、現在に至ったと言っても過言ではないと思います。

娯楽の王様は映画

テレビ登場後、映画関係者はテレビを下に見ていたようですが、徐々に潮目が変わり、やがて追い抜かれていくことは様々な小説やドラマ等でも描かれており、そういう歴史として認識されています。そんなテレビが映画との差別化策として力を入れたのが、リアルタイムを楽しむスポーツ中継でした。相撲、プロ野球、ボクシング、そしてプロレスです。

昭和のテレビ番組の優良コンテンツであったプロレス。力道山率いる日本プロレスの中継は、日本テレビが担っていました。

このまま安泰かと思われた日本プロレスは、会社の絶対権力者で、
かつ団体の絶対エースであった力道山を1963年の暮れに突然失ってしまいます。戦後の大スターの早すぎる死は、日本国民にとってもショックだったはずです。

その後は、力道山の弟子であるジャイアント馬場、アントニオ猪木というスター選手により、プロレスブームがしばらく続くものの、そもそも‘俺が!俺が!’という連中ばかりの世界です。睨みを利かす力道山がいなくなったのことで、徐々に崩れていったのも仕方がないところでしょうか。

1966年、日本プロレスの営業部長だった吉原功は、アメリカで活躍していた日本人レスラーのヒロ・マツダと一緒に「国際プロレス」を立ち上げます。それまで独占状態だった日本プロレスの競合会社の誕生です。国際プロレスは、設立当初から苦戦を強いられますが、旗揚げから約1年後にTBSでの中継が決まりました。1968年の正月から試合中継が始まり、その第1戦の目玉は、‘鉄人’ルーテーズと団体エースに据えられたグレート草津とのタイトルマッチでした。これはキャリアの浅い草津にとっては、かなりの大舞台です。TBSはじめ関係者は、プロレス界の大看板であるルーテーズをグレート草津が破り、スターの誕生を思い描いていたと思います。しかし世の中、そんなに甘くありません。テーズの代名詞である‘バックドロップ’をくらった草津が、失神KOし、スター誕生はなりませんでした。ここで青写真通りにタイトルの移動があれば、その後の視聴率も国際プロレスの人気も上がったことでしょう。

やはり何事も真面目に取り組むことが大事

グレート草津は、ラグビーで活躍し、日本プロレスに入門したものの、その環境に馴染めず、目立った活躍もないまま一度フェードアウトし、その後国際プロレスの旗揚げに参加しました。ラグビーで活躍したことを誇りにしており、プロレスに真剣に取り組まず、楽をして儲かるくらいに考えていたふしがあったようです。
国際プロレスに所属していたレスラーのインタビュー記事から見えてくる人物像は、決して良い印象を受けません。今ならパワハラで一発アウトといったイメージです。ただし、ここは勝手に感じた個人的な印象なので、ご了承頂きたい。

さて、プロレスラーは、日々トレーニングをして体力をつけ、技を磨き、それを試合で見せないといけない訳ですが、そういう意味では、グレート草津は様々に不足していたように思います。
テーズ戦での失態後、団体のエースになることはなく、団体崩壊まで居残り続けます。(途中、ケガにより選手としては退き、フロントとして団体を支えました)恵まれた体格だったので、きちんと練習して技術、体力をつければ、ジャイアント馬場、アントニオ猪木と並んでもおかしくなかったとも評されるだけに残念です。
やはり、何事も真面目に取り組まないといけないということです。

プロレスラーは大きくてナンボ、という時代に、国際プロレスは身長の高い選手に恵まれませんでした。これも悲劇のひとつとして語られています。人気選手不在は、テレビの力を持っても補うことは出来なかったのです。これは製品が良くなければ、いくら宣伝しても売れない、というマーケティングの理屈にぴたりと当てはまります。

エースが負ける!?

1974年に行われた、当時の国際プロレスのエースであったストロング小林と新日本プロレスのエース、アントニオ猪木の対決も
国際プロレスにとっては、悲劇のひとつです。力道山対木村政彦の「昭和の巌流島」と言われた対決以来の大物日本人同士の試合にファンは注目しました。結果は猪木の勝ち。プロレスマニアにはお馴染みの猪木の‘足が浮いた’ジャーマンスープレックスで決着しました。両者はその後も対戦したものの、小林が勝つことはなく、そのまま新日本プロレスに入団しました。猪木、坂口に次ぐ3番手のポジションで活躍することになりました。会社員に例えれば、転職したら以前より降格となった訳で、本人は面白いはずはないと思います。ストロング小林は、やがて格下の選手にも負けが続くようになりました。腰痛の悪化もあり、引退しタレントへと転身します。‘ストロング金剛’の名で「風雲たけし城」などで活躍しました。我々世代には懐かしい光景です。

団体のエースが、他団体の選手に負けるということは、組織そのものが、その団体よりも格下になってしまうことを意味します。そういうことでは、国際プロレスは、新日本プロレスより‘格下’の団体になってしまった訳です。その数年後、エースであったラッシャー木村が、ジャイアント馬場と対戦しましたが、勝つことは出来ず、ここでもやはり格下視されてしまいます。こういった経緯を経て「悲劇の第3団体」化が、ますます濃くなっていきました。

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#実録国際プロレス #辰巳出版

国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレス、この3団体の構図を製造業の競争に当てはめてみると、売れる製品、人気製品のない会社は続かないという単純なことにたどり着きます。ファン(ユーザー)が求めるものを提供し続けることが出来る会社だけが存続し続けることが出来るという訳です。グレート草津が、もっと自覚と誇りを持って練習していれば…。歴史に‘タラレバ’は禁句ですが、本当にそう思ってしまいます。昭和という時代に存在した「国際プロレス」。その興味は尽きません。(終)

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