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【I-012】運命を感じた不思議な瞬間

運命を感じた瞬間、というと、何か胸がキュンとする感じの青春系な
イメージを持たれるかも知れませんが、ここでは私が「何とも不思議だなぁ」と感じたことをお伝えしたいと思います。

祖父の知らせ??

今から20年以上前のことです。新卒で就職して3年目に入った6月中旬
でした。入社後すぐに仙台の営業所に転勤となり、何とか自分のペースも
掴めて来た頃です。その日は、土日1泊で営業所の社員旅行でした。
仙台から車数台に分乗して、とある温泉に行きました。宿につく前から
何となく頭痛がしていたのですが、宿に着いても収まらず、頭痛薬をもらい
部屋で横になりました。その後、少し眠り、薬も効いたようで頭痛も収まり
ました。ほどなく、夕食とのことで呼ばれました。2日目の行程も終えて
日曜の夜に家に戻ると、留守番電話のボタンが点滅していました。
これはメッセージが録音されているということです。
因みに、この頃(1995年頃)は、携帯電話は普及しておらず、ポケベルの
時代だったのでしょうが、使っていなかったので、専ら家の電話
(+留守番電話機能)でした。
再生ボタンを押すと「〇〇件です」と2桁の件数でした。何事かと思い
再生すると、全て母親からでした。
土曜日に祖父が亡くなったとのことでした。
営業所の1泊旅行のことで、いちいち実家に連絡をする訳もありません。
折り返し電話をすると、案の定母は怒っていましたが、すでに告別式も
済んだとのこと。色々と話す中で、ふと祖父の亡くなった時間を聞きました。
すると、私が頭痛で横になっていた時間とぴったり合ったのです。
そのことを母に告げると、「おじいさんがお前に知らせに行ったんだよ」と
言い、同時に涙が溢れました。私は俗にいう霊感が強い訳ではありません。
単なる偶然かも知れませんが、これは祖父からの知らせだったと今でも
思っています…。

息子の誕生

それは5月の日曜日、それも母の日でした。朝5時頃に家内に起こされました。「産まれるかも…。病院に電話したら、すぐに来てくださいだって。」
一気に目が覚めました。すぐに支度をして車で病院に向かいました。
駐車場を出て、少し走ったところに信号のない横断歩道があります。
よく見ると白い鳥らしきものが、横断歩道の上にいます。スピードを落として近づいても飛び立つ気配がありません。ついにブレーキを踏みこみ止まりました。この鳥、一見鶴のような感じですが、判別する知識もありません。長いくちばしは赤く、細くて長い足も赤い感じです。
家内と「何、何!何、この鳥~!!」とただただ驚きまくっていました。
ガラケーの時代で、写メすることは可能でしたが、そこまで頭が回り
ませんでした。
この鳥は、悠々と横断歩道を渡っているように見えました。
本当に不思議な光景でした。
クラクションを鳴らす訳にもいかず、飛び立つのを待ちました。
おそらく1~2分のことだったと思いますが、凄く長く感じました。
ようやく飛び立ち、再び走り出すことが出来ました。
快晴の日曜日の早朝。道路はガラガラで病院までは30分で到着。
不妊治療で通っていた病院なので、そのままその病院で産むことになっていました。地下駐車場から受付を通りました。到着するなり、すぐに産みましょう!ということで家内は運ばれて行きました。
時計見ると6時ちょっと。それから待つこと9時間。
待望の息子が産まれました。途中、帝王切開にしましょうという話しも出ましたが、そこへ不妊治療を担当してくれていた先生が登場する奇跡が起こりました。先生は、休みにも関わらずたまたま病院に用事があり、そこで家内のことを知り、駆け付けてくれたのです。
「赤ちゃんは凄く元気だから、そのまま頑張って!」
家内はこの言葉に励まされたと言います。「母子ともに健康です」、
この言葉を聞いてドッと疲れたのを思い出します。
とにかく良かったという気持ちです。
その日の夕方、家内と朝の鳥のことを話しました。あの鳥は何だろう、
不思議な感じだったよね、今度調べてみようと盛り上がりました。
数日後の新聞で、その鳥を見つけました。その記事は兵庫県豊岡市を紹介するものでした。そして、その鳥は何とコウノトリでした…。
我が家の子供は、まさにコウノトリが運んできたのです。
会社が休みの日曜日というタイミング、それも母の日。
本当は居ないはずの担当の先生が現れる不思議…。
今考えても本当に不思議なことが重なった1日でした。

父の病気

2016年5月にそれまで勤めた会社に辞意を伝えました。40も半ばになり、
本社からグループ会社を転々とする人事を経験した末の結論でした。
気持ちの整理も出来、両親にも話しをしました。特に驚いた様子も
なく、まぁ、これからも頑張れ、で終わりました。それから数日後、父が
病院で検査を受けたと聞きました。父は、昔から健康を自慢にしており、
風邪をひいたくらいでは病院に行きませんし、家族が行けと言っても
素直に聞く人ではありませんでした。そんな父が自ら検査を受けたというの
ですから、何事かと心配になりました。父はこの時76歳。検査結果を
一人で聞いて、間違いがあるといけないので、付いてきて欲しいと言われ
ました。母は、おろおろするばかりで、あてにならず、私が指名されました。
会社は引継ぎやらでバタバタした状況ではありましたが、もはや割り切って
父親優先で時間を取ることにしました。

父は、お腹が張るということで検査をしました。もちろん胃カメラもしました。
結果を聞きに診察室に入ると同時に目に入ったのは、医者の机に貼られた
何枚もの胃カメラの写真でした。素人目にも普通ではないことが分かるほど
の写真でした。医者は「細胞検査の結果をみないと何とも言えませんが…」と前置きしつつも、「仮に癌の場合なら、ステージ4です」とストレート過ぎるコメントをしました。
もはや「仮」の意味がないじゃん!と心で叫びつつも、医者のコメントを
聞きました。父はもちろん険しい表情をしています。さらに「ホスピスは
ご存知ですか?」と癌患者が最後を迎える病院の紹介まで始めました…。
何だこの医者、もはやコントだと思いました…。

父は胃がんだったのです。
それも末期中の末期です。相当我慢していたのでしょう。
しかし、こんな胃の状態で、今朝もご飯を食べていました。そこは医者も
びっくりしていました。
数日後、癌と確定されました。もはや手術のしようもない状況のようでしたが、父の表情を読み取ったのか、医者は抗がん剤治療を提案しました。
もはや気休めです。しかし、父は治る気満々でその治療を受けました。
点滴による抗がん剤の投与です。副作用もある、と言われました。
その覚悟もして自宅に戻りました。

抗がん剤治療から3日後の早朝、父は血の塊を吐きました。すぐに病院に
連絡し、状況を伝え指示を仰ぎました。もちろん、すぐに病院に来るように
とのこと。タクシーを呼んで病院へ行きました。処置をしてもらい、
そのまま入院となりました。最初に検査を受けてから1ケ月後のことでした。この頃の私は最終出社日を終え、有休消化期間になっていました。

病院は自宅から徒歩5~6分の場所だったので、その部分では楽でした。
入院後、父の両足が異常にむくんできました。すでに腎臓にも転移しており、その機能の低下が原因とのことでした。ただ入院後半月くらいは、自分でベッドに腰をかけて座り、見舞いに来た親戚と談笑していました。

その一方で、我々家族には、もう長くないと言われていました。
それがひと月なのか、3ケ月なのか、もはや分からないとのこと。
近隣のホスピスにもすでに予約を入れてあり、ベッドが空くタイミングを
待っている状況でした。

そして入院からちょうど1ケ月経った日に、ホスピスから連絡が入りました。いよいよ転院です。この頃の父は、もう話すことは出来なくなっていました。自分で起き上がって、ベッドに腰掛けることも無論無理です。ホスピスまでは車で10分くらいです。救急車ではなく、介護タクシーを手配しての移動です。
ストレッチャーに横になる父は、ホスピスに行く意味を知ってか、声に
ならない声で抵抗しているようでした。本当に嫌がっているようでした。
傍らの母はずっと泣いているばかりです。医者も看護師さんたちも十分
すぎるくらい分かっているはずです。もはや仕方のないことでした。

私が同乗し、ホスピスに向かいました。用意されていたのは個室で、
立地もあって非常に静かな環境です。これから検査をするので、今日は引き
上げて大丈夫とのことだったので、帰ることにしました。帰り際に
看護師さんに「念のため、夜中も携帯電話がつながるようにしておいて下さい」と言われました。何となく嫌な気持ちになりましたが、こういうものなのだ、と受け止めました。

そして、その晩、携帯を枕元に置いて寝ました。

携帯電話の着信音で目が覚めました。出るとホスピスからです。
一気に目が覚めました。「これから病院に来れますか?」と看護師さんの声。
非常に落ち着いていました。時計を見ると朝の3時半。すぐに支度をして、
家族に追いかけて来るように告げて、先に向かいました。
タクシーを拾い、ホスピスまでは10分。夜間の受付を通り、病室へ
急ぎました。廊下は電気がついているものの、もの凄く静かで、自分の
呼吸の音が気になる程でした。ノックをして病室に入ると、薄暗い照明の
中にベッドに横たわる父と付き添って頂いている看護師さんが目に入りました。

看護師さんは、父に「息子さんが来てくれましたよ」と優しく語りかけました。父の反応はありません。ただ静かに呼吸をしているだけです。
私は言葉に詰まり何も発することが出来ません。ただただ父の手を握る
ことしか出来ませんでした。
父が呼吸する音を聴きながら、時間が過ぎて行きました。
何分経ったでしょうか。
気が付くと、呼吸の間隔があいていました。明らかにゆっくりというか、
不定期というか、そんな呼吸になっていました。そして、一瞬、アレ?
音がしないと思い、看護師さんを見ると、手首を押さえ脈拍を確認しています。
少しの間をおいて、ゆっくりうなずきながら「頑張りましたね、
今旅立たれました…」と言いました。父はたった今死んだのです。
私は深くゆっくりと息をはきました。
「ありがとうございました…」これを言うことが精一杯でした。
親の死に目に立ち会えたことを最後の親孝行と思うようにしています。

会社を辞めると決めたとたん、父の病気が発覚。それからは会社を気に
することなく看病出来、最後にも立ち会えたこと。
これも何とも不思議な人生のタイミングでした。


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