幼少期。Nちゃんについて。

社会学(特に質的調査による文化やジェンダーを扱ったものもの)が好きだ。「お生まれは?」「覚えているいちばん古い記憶について教えてください。こういった質問から、人のストーリーに深く深く潜ってゆく。

これらの質問を自分に問うてみた。
「東京の下町。本当に、真っ平なエリアかもしれない。」「近所のヨーカドーで迷子になった時、母がわたしを見つけてくれた時の顔。」

下町で生まれ育った。ご近所だったラーメン屋さん、八百屋さん、魚屋さん、クリーニング屋さんは、いつも暖かく、おつかいの時は見守ってくれた。

ラーメン屋さんは、風邪をひいたときにしか食べれないごちそう。八百屋さんはいつもぬか漬けを買うと、おまけやお菓子をくれた。魚屋さんは、ぶりの照り焼き(甘辛のタレに漬けられた、焼くだけになっているもの)が光り輝いて見えた。クリーニングやさん、あのあったかい匂いが好きだった。近くの公園は、7月末のお祭りは子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、たくさんの人で賑わう。いつだかに、くじで特賞だか、1等が当たったっけ。

街の思い出も尽きないけれど、人の思い出もたくさんある。その中でも思い出深い「Nちゃん」について少し書きたいと思う。

幼少期はとにかく、根暗だった。というよりも、友達を作り外で遊ぶより、1人の世界が好きだった。何かをつくることが好きだった。
友達は自然と離れていった。そんな時、わたしのそばにいてくれたのはmちゃんとNちゃんという友達だった。(mちゃんはきっと中学くらいに登場予定)

Nちゃん。彼女はダウン症だった。かなり重い症状だったと思う。皆、彼女のことを避けていた。

わたしが通っていた保育園は、キリスト教が母体の保育園だった。12月、4.5歳児が合同で、キリスト生誕劇をやるのが慣例となっている。5歳の時、わたしとNちゃんは天使の役だった。

右手に星のついたスティックを持ちながら、前に進み、セリフを言う。たったこれだけなのに、わたしにとっては恥ずかしいことだったし、Nちゃんのフォローもしなくてはいけない。本番のことは覚えていない。そうしてあっという間に卒園した。

小学校に進学した。Nちゃんは特別支援学校へ行った。もう会うことはなかった。

中学生3年生の1〜3月、わたしは受験を終えた頃に再会し、彼女はわたしに手を振った。覚えててくれていたことに驚きを隠せなかった。

Nちゃん、わたしのことを覚えててくれてありがとう。あなたと接するたびに、コミュニケーションは難しいかもしれないけれど、同じように感情を持ち、世界を感じ、生きる人間であることを思い出させてくれます。
障がいの有無で、社会は分断を生むけれど、分断をつくるのは、いつも健常者のほうだということにも気づかされます。

今日はこの辺で。


ワカバ🌿