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とても面倒臭くてすみません。

単純に思うこと。と考えることが違うように、悩むことと考えることは違うし、「知ること」と「分かること」も違う。もちろん「信じること」はもっと違う。

「あなたは神を信じますか?」と問われることはあっても「あなたは地球が丸いことを信じていますか?」とは問われない。普通なら「地球が丸くて自転していることを知っていますか?」と聞かれる。と同時に「地球が丸いことを知っています。」と答えると思う。

本当に地球が丸いことを知っているか?を考えると、正確には「科学や理科で地球が丸いことを習ったし、自転していることも教えて貰ったから知っている。」ということになる。さらには、丸い事の根拠や自転していることを科学的な証明方法も知っているだろう。しかしながら、他の卑近な事象のように、自分の目で外の世界(宇宙)から丸い地球を見た事がないにも関わらず、映像や画像を見た事で、さも経験したようになっていることも事実だ。

では、キリスト教の信者はキリストの奇跡や存在したことをどう思っているのだろう。少ない事例で確かなことを言うのははばかれるが、彼や彼女たちは、キリストの起こした奇跡や存在を信じて疑わない。そして、神の教えを知っていると言う。すくなくともキリスト教信者でない自分にはその奇跡や存在は信じがたく、教えとして刷り込まれた教義として信じているに違いないと思う。

つまりは、実在した歴史上の人物であれ今の私たちには、資料や文献の上でしかその存在は確認できないし、いたであろう事を信じるしかない訳である。

では。知るということはどういうことか?

キチンと考えないと、漠然と思っているに過ぎない。さらに、生きるか死ぬかなどと未だに悩んだこともないので、生死についても漠然としている。考えることにも至っていないからこれもまた、思っているくらいなんだろう…と思う。

そんな事を書きながら、明日の仕事の段取りを考えたり、夕飯は何を食べようかと思ったりしている。

正確には、選択肢があっての段取りや支度なら考えたり思ったりではなくて、ただ迷っているのではないか?選択肢から「選ぶ」というのが適当なんだろうと思ったりする。

そしてこんなことを言うヤツはきっと面倒臭い奴なんだろうと言うことも分かっている。

とつけ加えておきますw

追記:最後に面倒臭い奴なんだろうと書き加えましたが、この程度で「面倒臭い」というのが、烏滸がましいくらいの「超絶面倒臭い」方々を目の当たりにして…。反省しましたw  普通以下ですねwww    敬具。        <ある意味ひと皮剥けて大人になったと言うことですね。>

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