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vol.79 三島由紀夫「潮騒」を読んで

僕が住んでいる豊橋は、渥美半島の付け根に位置する。その先端に、伊良湖と鳥羽を結ぶフェリーがある。このフェリーは小説の舞台になった神島のすぐ横を通る。鳥羽に向かうフェリーのデッキから『潮騒』の神島をずっと眺めていたことがある。深く濃い伊勢湾に浮かぶ風光明媚な神島はどこか神秘的で、テトラポットに当たって砕ける白波から、他を寄せ付けない頑固さを感じた覚えがある。

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この『潮騒』で描かれた歌島(現神島)の人たちと、以前僕がフェリーのデッキから感じた神島は、どことなく似ていた。

三島が描いた歌島には、新しい価値とは関係のない島の人たちがいた。男たちは力強く危険な漁に出て稼ぐ。女たちは悲劇の経験を超えて、明るくたくましく働く。他に影響を受けずに脈々と受け継がれたままにそれがあった。そこには迷いはなかった。代々神に守られながら、まっすぐな新治がいて、初々しい初江がいて、島の金持ちで力の権化のような照吉がいた。

洞窟があって焚き火があって燈台があった。美しい自然があって八代神社があって伝統があった。この島には、一途な純粋さがよく似合う。それを讃える素地もあった。全てが潮騒に包まれていた。僕はそう感じた。

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この小説は何度も映画化されている。愛する女と幸福に結ばれるという結末は、共感しやすい。

しかしこれは三島由紀夫の作品なのだ。青春の恋物語をどう捉えればいいのだろうか。

三島は神島滞在中、川端康成に「デカダン小説とは正反対の健康な書き下ろし小説を書くために調査に来ている」という手紙を送っている。

それを受けてこんなふうに考えてみた。

古風な共同体の中で生まれる微笑ましい恋物語は、戦前、戦中のイデオリギーを信じない、戦後の新しいイデオロギーも信じない「無頼派」とばれる連中への皮肉だったのかもしれない。誰も知らない小さな漁村の一漁夫の恋物語こそが、歴史上何回も繰り返された変わりようのない日本人のこころなのかもしれない。

YouTubeにあった三島由紀夫VS東大全共闘の中で、三島はこう主張していた。「僕は日本人である以上、日本人以外になろうとは思わない」これは、『潮騒』で描いた、古き良き共同体の価値と同じではないかと思った。新しいものに何も影響を受けていない新次と初江のまっすぐな恋心こそが、三島が大切にする日本だったのかもしれない。

昨日から公開されている「・・vs・・50年目の真実」に少し興味が湧いて来た。

おわり


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