それらは無力で助けになりませんでしたが、少しずつ私の中に自分を信じる力を残しました。

かつて「パソコンで原稿を書く」と言ったら、「誰も読んでくれないよ。わざわざパソコンを開いて読まないよ」と言われました。

「パソコンで書く」と「パソコンで読んでもらう」は別のことと私は思っていた。パソコンで書いておけば、webでもPDFでも紙でも読んでもらえる。

しかし人は「パソコンで書く」=「パソコンで読んでもらう」だと思っていました。

これは思い込みというよりも、想像の限界ですから、抜け出すことはできない。

多くの人が「女装する」=「男性とセックスしたい」だと思っている。

人々がイコールだと思っていることを、イコールではないと知っていると、人々から馬鹿だと思われる。

「こいつ、自分の原稿を人がわざわざパソコン開けて読んでくれると信じてるぜ。ほんとに馬鹿だなあ」となる。

説明をしたら、馬鹿にしていたのとおなじだけ、馬鹿にされたと感じるので、受け入れないです。嫌われます。

馬鹿にされたまま、そっとしておくのが最善でした。

若い頃の私はこのパターンから抜け出せませんでした。

今の私なら、かつての若い私を抱き締めてパターンを解いてあげることができるでしょう。

人の理解を必要としなくなるまで、抱き締めます。

それに近いことをしてくれる人たちが実はいました。

私を信じる人たち。

私の中に、自分を信じる力を少しずつ溜めてくれました。

半世紀の間、ほとんど途絶えることなく、私を信じる人たちかいました。

それらは無力で助けになりませんでしたが、少しずつ私の中に自分を信じる力を残しました。