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エゴに過ぎないとしても

つい、人生に目的を求めてしまう。何かを成すために生きたいと思ってしまう。

怠け者だからなのかもしれない。
目的や意義を感じられないことには、労力を割きたくないと思ってしまう。

「アンパンマンのマーチ」の歌詞に、こんな一節がある。

何のために生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのはいやだ
― やなせたかし「アンパンマンのマーチ」より

一般論として、この問いに答えられなくてもいやだなんて思わなくていいし、答えられる必要もない。
このような気疲れする問いなど考えず気楽に生きていればいい。

しかし私は、答えたいと思ってしまう。
難儀なことだと思うが仕方ない。

 

私は、社会のコミュニケーションを改善したい。
他者の立場を想像し、理解し、自分事として考えられる人を増やしたい。
人が人を支配せず、信頼し、個々人が伸び伸びと能力を発揮する世の中に近づけたい。
そのために自分の労力と時間を使って生きたい。

人は、社会で生きる生物である。
コミュニケーションする人数規模を増やし、役割分担し合う社会を拡大させることで繁栄してきた。
だから私は、社会の拡大と社会の信頼性向上を「良い」ことだと考え、これを目指すことに貢献したいと考えている。

「良い」ことだと思うだろうか?
しかしこれが「良い」か「悪い」かを決める絶対的な根拠は、どこにも存在しない。
他人の立場など想像せず、誰もが自分の利益を追求し合う競争こそが豊かな世の中を作るのだという考え方も存在する。「悪い」わけではない。ただ私の意見と違うだけ。
強い者が弱い者を支配し、上意下達の意思決定を滞らせないことが豊かな世の中を作るのだという考え方も存在する。「悪い」わけではない。ただ私の意見と違うだけ。
法律も道徳上の規範も宗教の教えも、あくまでも受け容れている人が多いというに過ぎず、絶対的に正しいわけではない。
「良い」か「悪い」かは、個々人の判断によるものだ。

私の思う「良い」は、絶対的に正しいわけではない。
共感してくれる人はいるとしても、あくまでも私の考えに過ぎない。
そんな考えのもとで定めた目的に対して、労力を割く意味はあるのだろうか。

 

絶対的な意味は、無いだろう。
しかし、私にとっては意味がある。
私は社会のコミュニケーションを改善したい。そのために対話の場を増やしたいし、対話の基盤となる知の価値を訴えたい。
あくまでも私のエゴに過ぎない。私のエゴで、この目的に労力を割いて生きたい。
それで十分だ。

私は、社会のコミュニケーションを改善することを「良い」ことだと思う。
他者の立場を想像し、理解し、自分事として考えられる人を「良い」人だと思う。
人が人を支配せず、信頼し、個々人が伸び伸びと能力を発揮する世の中を「良い」世の中だと思う。
「良い」か「悪い」かは、個々人の判断によるものだ。
共感してくれる人は少ないかもしれないし、多いかもしれない。どちらでもいい。
私は私の判断で、エゴで、私の思う「良い」を訴えることに労力を割きつづける。職業も、この目的に対してより有効に利用できるものを選んでいく。

ひょっとしたら、私が訴えることで私の考え方に共感してくれる人が増えるかもしれない。共感はしてくれなくても、私のような考え方を理解して配慮してくれる人が増えるかもしれない。
それで十分だ。

 

哲学対話を経て、書いておきたくなったこと。


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