間違え方を評価する
学生の頃、数学者でありエッセイストである森毅先生の本がとても好きで、よく読んでいました。その中でも、印象に残っている話をご紹介します。
(タイトルは忘れてしまったんですが、確か「数学的思考」だった気がします)
●アルゴリズムかオーダーか
例えば、
12.34×5.6 = 69.104
という計算があったとき、
a)691.04
b)80.21
c)8.021
という誤答 (a)~(c)に対して、小学校の教員から大学教授まで数名を集めて、10点満点で評価をしてもらったんだそうです。(私の記憶と解釈から話をしているので、数字など細かいところは、森先生の書かれた内容と異なると思います。)
そうすると、(c)は当然全員の評価が低く、0~2点だったのに対し、(a)と(b)に対しては、評価にバラツキがあったそうです。
おおよその結果は、
(a)に関しては、小学校の教員の評価が高く一番高く、7~9点だったのに対し、大学の教授や講師では0~3点の低評価
(b)に関してはその逆で、大学教授らの間では7~9点で高評価だったのに対し、小学校の教員が一番厳しく、0~3点の低評価
だったと記憶しています。
これが意味しているのは、こういう事です。
まず、各誤答のポイントは
(a)は、小数点の位置を間違えている
(b)は、掛け算の手順を間違えている
(c)は、上記2つの両方間違えている
という点です。これらに対し、
小学校では筆算の手順、つまりは「アルゴリズム」への理解を重視するため、(a)が高評価
大学では、真値(正解)からの誤差、言い換えると「オーダー」の把握を重視するため、(b)が高評価
となる傾向があったという事でした。
教育の目的によって、誤答への評価が分かれるというのは、なかなか興味深い話だと思います。これはもしかしたら、数学の先生か物理の先生かによっても変わるかもしれませんね。
実際に物理科目において、
計算をどこまで評価対象とすべきか
というのは難しい問題です。物理学の本来の役割は、
法則に従って数式を立てるところ
までのはずで、それ以降の式の変形や計算は、数学の範疇です。ただ、
計算結果の妥当性
を物理的に評価していないとしたら、それは正解にすべきではありません。
例えば、自動車の加速度を求める問題で、計算結果が
重力加速度の5倍や10倍の値
が出てきたら、それは
物理計算として妥当性が評価できていない
という事になり、例え式が合っていても正解とすべきではありません。
●教育におけるテストの目的
この評価結果も然ることながら、私が一番面白いと思ったのは、この
「誤答を評価する」
という考え方です。
数学や物理の問題は、特に中学までは
「正解は一つ」
と考えられがちで、
「答案の内容がどうであれ間違いは間違い」
とされるケースが多いと思います。
しかし、教育者の本来の役割としては、
「どう正解するか」
を教える事ではなく、
「間違いに対して気づきを与えていく」
事だと思うのです。そういう意味で、この
「間違え方の評価をする」
というのは、とてもいい考え方だと思いました。
教育において、テストや演習を行う目的は何でしょうか。
資格試験や入試であれば、
一定レベル以上の知識があるか判定する
入学者数を絞る(※)
という目的なので、
「正解」「不正解」
だけを判断し、合否を判定するのは妥当だと言えます。
しかし、教育として行う場合は、
学習成果を評価して、学生本人に理解度を把握させる
のが目的ではないでしょうか。
「正解」「不正解」を判定するだけでは、学習成果の評価はできても、理解度を把握させることはできません。そこに、
評価について吟味する余地
が無いからです。学生も点数や合否に一喜一憂するだけで、よほど目的意識を持った学生でない限り、
結果から自らの理解の妥当性を再確認する
という事はしないと思います。
しかし、実際には学生の答案一つ一つに対して真摯に向き合い、
「誤答を評価する」
というのは、とても骨が折れます。教員が持っている教科数にもよると思いますが、私の感覚だと、1教科あたり20人程度が限界ではないでしょうか。
しかしこれは、教育者として成長するにはとても早道なのです。それは、誤答を評価するには
人がどこをどう間違えたかを、答案を見てわかるほどに深く理解する
必要があるからです。つまり、自分が理解しているつもりの内容を、改めて学び直す切っ掛けが得られるからです。
また、学生の間違え方を知ることによって、
自分の教え方が誤解を招いていないか
という再チェックにもなります。
さらに、
誤答への評価方法に関して学生とのコミュニケーションを取る
のも有効だと思います。評価に対してクレームが起こるのは、そこに「対話」が無いからです。
納得したルールに従った評価に対して、文句を言う人はほとんどいません。しかし最近は、
クレーム対策としてエビデンスを残す
ことを重視するあまり、
一方的にルールを示してその基準で一律に評価をする
という事が行われるケースもあります。それは教育の目的とは逆の方向を向いていると言わざるを得ません。
多人数での「詰め込み教育」の弊害というのはよく聞く話ですが、具体的にはこれが挙げられると思います。
●間違いには許されるものと許されないものがある
間違え方の評価に関しては、もう一つ思い出す事があります。それは、大学での製図の授業での事でした。
私の専攻は機械工学で、機械製図の授業がありました。その授業の先生は、工作機械メーカで設計をされていて、その当時はものづくり大学の講師もされていた方でした。
現在では製図の授業は、最初からCADを使うのかもしれませんが、私がうけた当時の授業では、製図板を使った手描き図面でした。だた、当時私は測量事務所でアルバイトをしていたこともあって、自分のパソコンでCADも使っていました。
だから私は、製図課題を手描きで行うという事が非常に不満で、「外形線」や「隠れ線」以外の「寸法線」や「中心線」などの長さは、大して気にせずに雑に描いていたんです。
ところが、製図課題をその先生に見せて言われた次の一言で、私は考えを改めることになりました。
「寸法線がはみ出ていたり、中心線が長過ぎたりするのは、何に対して何を表すための線なのか、その意味を考えていないということです。つまり、思想が無いんです。」
そして、
意味を考えていないという事は、やってはいけない間違いにもつながる
という事を教えて頂きました。それ以来、大学卒業後に仕事で図面を作成する事になった際に、例えCADで描く場合でも、
線一本一本に対してその意味を考えて長さを決める
ようになりました。
図面を作ったことがある人ならわかると思いますが、絶対に一人で完璧なものは描けません。いくら自分でチェックしても、必ず見落としや間違いがどこかにあります。
だから、検図は必ず複数人で行い、極力ミスが無い図面を出図するようにします。ただその中でも、
許容できるミスと許容できないミス
があります。
例えば、電気図面であれば、「線番号」や「参照ページ」に間違いがあっても、すぐに間違いだとわかります。しかし、「定格容量」などに関する記載に間違いがあると、図面を見ただけでは気付けない場合もあります。
そして、もし間違った容量のまま工事が進んでしまったら、その修正は大きな損失になります。
だからせめて、
これだけは自分で気付けなければいけない
という項目を、重点的にチェックしてから検図に出す事が重要です。
実際、私も電気設計として、これまで何枚も図面を描いたり検図したりしましたが、工事が進んでしまったら修正が大変になる間違いや、設計者側でしか気が付けない間違いについて、まず優先してチェックして、見つけたらすぐにフィードバックするようにしていました。
●間違いに気付くようになるために
設計の仕事を通じてわかったのは、
「正解や理想の形からどれくらい離れているのか」
を評価できるようになることが重要だという事です。
「正しいもの」と比較して違う点を見つけたら「間違い」
とする「二値評価」ではなく、
間違いの度合いを段階的に評価する
事で、例え正解が示されていない場合でも、
間違いに違和感を感じるセンスが磨かれてくる
のだと思います。
その意味で、
「間違え方を評価する」
事が、
失敗から学ぶ第一歩
になると考えています。
※教育をするための機関が、入学者数を「入試の結果」で絞るというのは、また大きな矛盾があると思うので、別途記事を書きたいと思います。
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