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死亡率3分の1の急性膵炎という病気になった件(1)

10年以上前、急性膵炎と言う病気で二週間入院した。25歳のころだった。

この入院が後の人生観を大きく変えた。

25歳にして倒れる

ITエンジニアとしては駆け出しで、サーバソフトウェアのテクニカルサポートを2年ほど続けていた。早めに帰り、当時住んでいた東武東上線成増駅の商店街の先にあるうどん屋さんでかき揚げを食べ、20時ごろには帰宅し家で休んでいた。

23時ごろ、強烈な腹痛に見舞われ、どうせ朝起きたら治るだろうと胃腸薬を飲んだが治らず、トイレで吐いても治らず、痛みで汗だくになり「あぁこれが脂汗ってやつかぁ」なんてのんきなことを考えながら、のた打ち回っていた。

その前の週、映画館に行ったのが悪かった。
あなたは本当に救急車が必要な患者ですか?」という大げさなCMが流れたのを思い出し、「今自分が果たして救急車を呼ぶべきなのかそうでないのか・・・」と痛みで朦朧としながら考えていると朝になったのだ。思い出してもバカだったと思う。

一応タクシー会社を読んでみるも、朝はまったく流れていないとのことで、相手にもされなかった。

結局近くの病院まで、文字通り「這って」行った。腹痛がひどすぎて、背筋を伸ばすことは出来なかった。民家のブロック塀に手を這わせながら、ようやっと病院につき、痛み止めの点滴を流しこまれたが1時間以上まったく効かなかった。

注射で痛み止めを投与され、ようやく痛みが引き、眠りに落ちたのは昼の12時を回っていたはずだ。かれこれ12時間ほど痛みに耐えていた。

夕方起きると、即刻入院と相成った。何の検査をされたか記憶は曖昧だが、初日は寝る間際までずっと点滴と、痛み止めの注射を定期的に打ち、身動きが取れなかった。

死の宣告(1/3)

翌日、病室に行くと、「ご家族の方は来れますか」と言うセリフを医師から聞いた。

「あれ、死ぬのかな?」

瞬間的にそう思ったが、恐怖が襲ってくる前に、家族は来れないと断言し説明を続けてもらった。

当時福島の家族とは離れて東京都は板橋区へ住んでいたので、物理的にも来てもらうようなことは気軽にはできない。

病名を聞くと、急性膵炎という病とのことだった。当時、急性膵炎の発症による死亡率は1/3の確率とのことだった。

ただし、体力的にもまだ若いこと、早期発見であったことから、比較的好条件で治療を開始できるという望みがあるとの説明を受けた。そして、「なぜ救急車を呼ばなかったのか」と医師に問い詰められたが、先週映画のCMを見ましてね・・・とは言わなかった。

本当に呼ばなければまずいパターンだったのかとは、その医師の言葉を聞いてようやく思い知った。

そしてこの急性膵炎は、死亡率もさることながら、内臓疾患の中でも特段トップクラスに痛みが激しく、医師曰く、内臓疾患の5本の指に入る痛みが襲う病気であるそうだ。

もちろん身をもってその痛みを体験しているので、疑いようがない。

過酷な入院生活

入院生活は過酷を極めた。それまでの人生において怪我や病気で入院したことなどほぼほぼなかった。2歳のころに小児喘息で入院した程度である。

まず、5日間の断食。水分補給もなし。

すべて点滴で賄うこととなった。口が乾いた時だけ、含む程度水を口に入れてよいそうだ。

炎症を起こしている膵臓は、胃の真裏にあるため、胃も引きずられて炎症を起こしており消化機能が働かない状態になっているという。

この状態においては、小腸も機能が働かないため、空腹を感じることはないそうだ。事実、腹が空かなかったことを覚えている。

ただし、胃液がたまり続けるので、鼻からチューブを通し胃液を出し続ける。この鼻からチューブを通す行為が地獄的な苦痛で、鼻から胃に管を通したまま5日間過ごした。

最初の3日間程度は、なんと身体を紐のようなもので固定され続けた

いわゆる身動きが取れない状態とされたのだ。体を動かすことによるエネルギー発散を防ぐためだとのことであったが、(そんな体を動かすような気力なんてないんですけど...)と思いながらも、身を委ねるしかなかった。選択肢はない。

記憶がないので書けないのだが、その間トイレをどうしていたのだろうか。なにも飲んでいないので出なかったような気がする。

そして、極めつけは一日20本以上の点滴

右腕と左腕を交互に点滴を流し込んでいたのだが、看護婦さんが「もう点滴刺す場所ないですね~」などと困っていたことを思い出した。20本は多分少なくて、朝起きてから夜中の巡回でも点滴を交換されていたので、決して言い過ぎた数字ではない。

入院生活は、以下の5本立てでスタートしたのだ。

・5日間の断食
・鼻から管を通す
・身体を紐で固定
・一日20本以上の点滴


※あしたにつづく

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