「やりたいこと」と内定取得の曖昧な関連

 新規大卒者の就職活動では、しばしば「やりたいことは何か」が問われ、語られる。もちろんこの文脈での「やりたい」は、たとえば「七つの海を冒険して海賊王になりたい」「寝転がって映画を見たい」といった願望を指すものではない。もちろん、仕事における意欲を新規大卒者は語り、企業はそれを採用の過程で問うわけである。

本稿の問題関心の核は、「やりたいこと」の明確化は内定取得とその後の就業の満足感に対して、正負を含めてどのような影響を与えているのか、というものだ。これに付随する問いとして、意欲十分に仕事をすることを肯定し続けるような心性は持続可能なのか、(「やりたいこと」を問うことを含め)就職活動という選抜は若年労働者の満足感を奪い「愛社精神」を養ってはいないか、の二点を挙げて、のちに論じる。参照する文献は、妹尾麻美「新規大卒就職活動において「やりたいこと」は内定取得に必要か?」である。URLを載せておこう。社会学研究会の学会誌「ソシオロジ」に2015年に掲載された実在の論文である。https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/59/3/59_39/_article/-char/ja  2020年6月16日に通読した。所要時間は32分。

論文の要約

 以下、妹尾論文(2015)の要約である。心理学と社会学の双方で研究の蓄積がある仕事に対する「意欲」を、妹尾は「やりたいこと」という概念で定義した。若者の就労における意欲についての研究は多数あり、概念的な整理は発達心理学の分野で整備されている。社会学では職業移行と職業達成(つまりは転職と就職)において「アスピレーション」という達成要求という語彙から、仕事への意欲が重視される社会へと変化してきたことを明らかにする。この問題関心のもとで、五大学六学部の「社会科学系の学生」456名(公務員志望は除く)の学生をケースに定めて、三年次11月と四年次11月にパネル調査(同じ人に同じように質問する調査)を実施している。「やりたい仕事の内容や職種は、はっきり決まっているか」、「自分のやりたいことが明確になったか」を尋ね、「やりたいこと」のイメージの確定、明確化の程度を四件法で答えてもらっている。量的分析の詳細は割愛しよう。

結論

 端的な論文の結論は、以下の二点に纏められる。まず第一に、「やりたいこと」が大学三年次に決まっていることと内定取得との関連は、弱いものの負の効果を持っていた。ただし、就職活動の過程で内定取得と関連があるか否かは、第一の論点では言い切れない。第二に、就職活動の過程で「やりたいこと」を明確化することが内定取得と関連すると分かった。つまり、就職活動初期に「やりたいこと」を有しているのは内定取得には重要でなく、むしろ就職活動の過程で「やりたいこと」を明確にできることが、内定取得に繋がっている、ということだ。示唆的な考察は続くが、社会学に課題として残されるのは、「仕事に対する意欲を単に心理的な側面に還元せず、仕事への意欲を他者に説明する語彙として『やりたいこと』が選ばれ、語られていることを分析する」(妹尾 2019:51)必要を提起して論文を結んでいる。

 広義の就職活動といえるイベントを二つ終えて疲れ果てた筆者にとって、読んで面白く示唆的な内容の論文だった。「やりたいこと」と内定取得は、「やりたいこと」が獲得される時期によって、捻れた関連を示すというわけだ! さて、研究者の卵の視点でコメントを書き連ねよう。耳目を集めそうな大きな話題の割に、サンプルが社会科学系の学生456名の統計分析にとどまった研究だが、抜け目のない定義、緻密で心理学にも通じる尺度(四件法)の運用、抑制の効いたディスカッション、といった特に三点が秀逸だった。二項ロジット分析やR二乗値の算出、統計処理に四苦八苦した経験が筆者にはあるが、この分析を緻密に遂行した妹尾氏らの努力に、若輩者ながら賛辞を送りたい気持ちである。先行研究のレビューから疑問が残るのは、コテ(2014)が示した「アイデンティティ資本が高いほど将来的に安定的な職業生活を営むことができる」という知見だ。「アイデンティティ資本」をレヴィン(2002)に倣って「主体的に自らを作り上げ、自我をコントロールする力量」と定義したまでは頷けるが、「安定的な職業生活」が何を指すか不明瞭であり、どの程度のスパンのパネル調査を実施したのか、遡らなければ釈然としない。統計処理では、モデルの説明力を表すR二乗値が、独立変数(この場合内定の可否を左右するかもしれない要因)の数を増やすにつれ大きくなる、つまりは内定取得率を式で説明する精度が高まる。このモデルの説明力について一文断りがあると初学者にはありがたい。「やりたいこと明確化」因子を導入した「モデル2」(妹尾 2015:49)によって非常に大きく高まっていることに言及があってもいいと考えた。モデルの説明力としては最大でも .195にとどまるので、この数値のジャッジを妹尾に求めたいと感じた。

感想

 論文に即した研究者風のコメントとは別に、素朴な感想を以下に書き並べる。まずは抑制の効いた議論のもとでもキラリと輝きを放つ、結論の面白さだ。端的に言って、「就活前に『やりたいこと』を定めても内定取得には繋がらない。就職活動の過程で『やりたいこと』を明確にした人が内定を取得しやすい」というのだ。アルバイトや映画やテレビやインターネットで心身に染み込んだ仕事のイメージで、「やりたいこと」を定めて就職活動に臨むことは、定めておかないことよりもマイナスの結果を招く、という結論である。なんと痛快なことだろうか!

第二の結論である、就職活動の過程で明確に「やりたいこと」を見つけるべし、というどこか教訓的な示唆は、仮に少々腹立たしいとしても納得である。仕事のイメージを掴んで面接なり試験なりに臨んだ学生の方が、企業に認められやすいのは当然の帰結として差し支えないだろう。続いて、稚拙な疑問を投げ掛けたいのだが、「ならば自然科学系の学生はどうなのか?」という問いも出てきて然るべきだろう。筆者の友人にも自然科学系の友人、その大半は「高学歴」「エリート」に分類される自然科学系の学生がいるが、彼ら/彼女らの「やりたいこと」意識は、内定の取得にどう関連しているのだろうか。真に関心・意欲がない分野のゼミや研究室に進み、研究室単位でのテーマ解決のために邁進する、という学生生活を送っているような自然科学系の学生にとって、就職活動の前、最中に「やりたいこと」を明確化することは、果たして容易なのか、そして内定取得に繋がるのか。自然科学系の学生にも質問紙を配りたいものだ。

 コラムニストの小田嶋隆は、小説家の村上龍が中心となって執筆された『13歳のハローワーク』(2003、幻冬社)の内容に潜んだイデオロギーを批判している。『13歳のハローワーク』は514種類の職業を網羅的に紹介したロングセラーで、職業を職種(仕事内容)で説明してしまおうとしたことを、痛烈に批判する。文章を抜粋、引用しよう。

 「生きがい」や「自己実現」や「アイデンティティー」や「自己実現」みたいなものがないと生きていけないという考え方は、私に言わせれば、そもそも異様な思想なわけだが、そこはそれだ。 (中略) だから、現代の若い人たちが自分探しのネタを求めることそのものを一概に否定しようとは思わない。でも、「生きがい」やら「自己実現」やら「アイデンティティー」やら「自己表現」を、「職業」の中に求めるのは、筋違いだということは、はっきり申し上げておく。(小田嶋 2016:139)

 小田嶋は13歳の読者をも想定に入れて、内田樹編「転換期を生きるきみたちへ」に寄稿しているわけだが、筆者はこれを21、22歳の若者にまで敷衍してもリアリティを失いはしないメッセージだと評価する。

 内田樹は別稿で、「就活なんてするな」などの暴論を振り撒いてしまっており、その極端な態度に関しては、私は反発心を隠さない。だが、以下の部分の事情については、程度の差はあれど真に迫るものがあるのではないか。

「大量の学生たちを希少な就職機会に押し込むから、倍率ははね上がる。何十社も採用試験に落ち続けた学生たちは自尊感情を損なわれ、自己評価が下がり、最後は『どんな条件でも働きます』と採用側にすがりつくようになる。」 内田樹ブログ「就活についてのインタビュー」(http://blog.tatsuru.com/2013/01/12_0952.html

 低賃金で働ける若年労働者の労働市場は、大学生には相当程度限定された形で情報公開され、競争は激化する。「今年の就活は昨年とは違う」という言説が学生の煽りを誘い、倍率を高いままに保ち、結果的に多くの落第とお祈りメールを生む。自尊感情、自己評価、本稿に引きつければ必死で探索・構築・武装した「やりたいこと」の価値を、見失ってしまった21、22歳の若者たちが、(妹尾の論文によれば80%前後という)高い内定取得率を伴ってようやく「承認」を手にするのだ。明確化を遂げて承認された「やりたいこと」は、意欲十分に働き続ける心性を担保するような動機、モチベーションとして残り続けるのだろうか。「やりたいこと」を言語化し明確化することのもたらす効能は、妹尾の論文を通じて内定取得には(曖昧な)正の関連をもたらす。だが、内田の指摘するような実情で擦り切れた「やりたいこと」は、就職後の満足感をたしかにするだけの力をもはや失っている可能性が高い。内定という「承認」は、「この企業こそが私の「やりたいこと」を受け入れてくれた。私のストーリーを肯定してくれた」というエモーショナルな気分とともに、「愛社精神」「会社が好き」のような心性に昇華するのではないか、重たい心の澱(おり)が気体になって拡散していくかのように。自分が選択し、一員として認められる喜びはこの上ないだろうが、数々のお祈りメールののちに言い渡された「内定」は、職種や職業への愛着というよりはむしろ、企業への強固な愛(忠誠)を誓う儀式として、ウラの機能を持っているのではないか。いや、あるいはオモテの機能かもしれない。そしてまた6月のこの頃、新入社員が嬉々として語り始めるような、企業に対する愛着の表現に繋がる。そして彼ら彼女らの一部は、無邪気に問うのである。ーーー「やりたいこと」は何ですか、と。

 散々皮肉めいたことを書いてしまった。筆者・今村の「やりたいこと」は、「今日を昨日と全く違う1日にデザインすること」である。これは、昨日のことを思い出せるうちは、今日が昨日に縛られないうちは、条件付きで志向できる「やりたいこと」だ。意欲はある。だが、体力、思考力には自信がない。誤字をチェックする余裕もない。

 明日「やりたいこと」は明日決まるのだが、(同席して生ビールと刺身を味わったこともある、)帝京大学の井上義和先生の文章を参照しながら、私はおそらくこんな論文調の文章に練り上げるのだと推測する。今日はベンチャーの香りがする貸衣裳(着物)屋とブライダル産業のコラボレートしたような企業の経営者さんと話した。「やりたいことは何ですか」と聞かれた。その場で作った。着脱可能な「やりたいこと」を身に纏って、軽やかに生きていけることを切に願っている。


参考文献(一部)

妹尾麻美、2015、「新規大卒就職活動において「やりたいこと」は内定取得に必要か?」『ソシオロジ』59巻3号。

内田樹編(小田嶋隆を執筆者に含む)、2016『転換期を生きるきみたちへ』、晶文社。

内田樹ブログ「就活についてのインタビュー」(http://blog.tatsuru.com/2013/01/12_0952.html

 

 

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