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小説『灯火』⑧-2

 一日空けて京子さんのお見舞いに行った私は、心底後悔した。
 私の顔を見るや否や、京子さんは私の手を握りしめて大粒の涙を流し、何度も「あかねちゃん」と名前を呼んだのだ。

 それまで特段、彼女に取り乱した言動が見られなかっただけに、私は今更ながらはたと思い出させられる。京子さんが、一秒一秒と闘っている現実を。「死ぬこと自体は怖くない」と以前言っていた京子さんの言葉に偽りはないのだとしても、目に見えない孤独と恐怖と痛みが限られた狭いこの空間で絶えず襲ってくるのが現実なのだ。

    いつもの時間にやって来るはずの私が来ず、だけどもやって来るのをただ待つしか出来ない時間の流れと思うように動かせない自身の肉体に、もどかしさを覚えない方が難しいだろう。

 とんでもなく深い傷を私は京子さんに負わせてしまった気がして、握りしめられた手から伝わる彼女の体温の低さを補うように私も涙を流して、京子さんの名前を呼んだ。ごめんなさい、と心の奥底で謝り続けながら、私はこのとき、「もしも時間が戻るなら」という夢みたいなことを考えていた。



 もしも時間が戻るなら、あの日の高校の屋上へ戻りたい。フェンスを乗り越えるしか道は残されていないと、眼前には絶望しかなかった十五歳のあの日。

    けれど、私は生きている。つい先日の九月には二十四歳になった。両親から、学さんから、橋本さんから、「おめでとう」と言ってもらえた。

    すべては野田幸一郎と出会った「必然」が繋げてくれた未来。時空を越えた今となっても私に救いをもたらしてくれる「必然」という名の灯火。屋上で彼と食べたおむすびとだし巻き玉子をもう一度口にしてみたい。絶望していたはずなのに、明日なんて来なければいいと願っていたはずなのに、お腹を満たした後で残酷にも思えるほどの幸福感で溢れたのは、私が、谷口あかねが希望を捨て切れていない証でもあったのだから。


 日に日に京子さんは、弱っていく。話す言葉も、上手く聞き取るのが難しいときがあり、ろれつが回らなくなっていた。

    そんな中で、「主人が花を持ってきてくれた」とキャビネットの方を指差すのだが、もちろんそこに花などない。しかし、京子さんにははっきりと見えているのか、「綺麗ね」と言う。だから、私も「綺麗ですね」と返す。すると満足そうに彼女はにこりと笑って、眠りに入る。

 私は親族ではないから、京子さんの詳しい病状を知らずに過ごしていた。もちろん息子の野田幸一郎は医師から聞いているのだろうけれど、彼から詳細を訊き出そうとは思わなかった。「余命」や「延命治療」というワードが話の中で出てきているであろうことくらい想像がつく。それが遠くないうちに現実になるかもしれない途方のなさと、野田幸一郎もひとり闘っているに違いなかった。

 ある日いつも通りに病室へ行くと、京子さんの口には酸素マスクがつけられていた。体内の酸素濃度が低下しており、装着を余儀なくされたようである。とはいえ、息苦しそうな様子は見られなかったため、私はほんの少しだけ安心してベッド脇の椅子に腰をかけ、しばらく彼女のそばにいた。

「あかねちゃん、いつもありがとうね」

 京子さんが言っているのが耳に入り、はっと意識を目の前に戻す。うっかり、うとうととしてしまっていた。

 そして、すぐ横に人の気配を感じて振り向くと、野田幸一郎が立っていた。電話では連絡を取り合っていたものの、実際彼の顔を見るのは久しぶりだったので、私は「おお」と思わず驚きの声を上げた。

「谷口、いつもサンキューな」
「ううん、普通に京子さんに会いたいだけだもん。仕事終わったんだ?」
「ああ。今日は、少し早めに切り上げてきた」

 私と野田幸一郎が話していると、突然京子さんが起き上がろうとベッドの柵に手をかけ始めた。私たちは慌てて彼女の身体の支えに入った。

「母さん、何だよ急に。どうしたの」
「顔を、顔を見たい」
「顔?」
「幸一郎とあかねちゃん」

 一度京子さんを寝かせ、野田幸一郎がベッドの背を起き上がらせる。

「どう? 見える?」

 息子の問いかけに京子さんは嬉しそうに、うんうんと頷いて、「続けばいいのに……」と小さく一言呟いた。それに対して、「何が?」と野田幸一郎も訊き返したりはしなかった。

    恐らく、「この時間が、この瞬間が、まだまだ未来へと続けばいいのに」と京子さんは言っているのだろうと私も覚る。

「谷口、そろそろ帰らなくて大丈夫?」

 野田幸一郎に言われ、「あ、うん、じゃあ、今日はこの辺でおいとましようかな」とバッグの持ち手を肩にかけ、「京子さん、また明日」と私は手を振った。

 力が入らない手で、それでも限りある力を込めて、京子さんは私に手を振り返してくれた。

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書き留めていたい─。30代前半。ポジティブにもネガティブにも偏りたくない。極度の方向音痴。「まじめ」も「くだらない」も大好き!感じたままを投稿しています。対人不安/ADHD/HSP/自己免疫疾患などあり。生きづらさを感じている、あなたの孤独を少しでも埋められたら嬉しいです🍀

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