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小説『灯火』⑧-3

 翌日昼の休憩を終えた私は、それまで受付窓口に立ってくれていた先輩に代わってカウンター内に入り、患者さまの対応をしていた。

 間もなくして、こちらから見て左側、病院の出入り口から長身の男性が駆け足で入ってくるのが視界に入った。

 ──あれ、野田くん?

 咄嗟に思う。
    男性は病院内に足を踏み入れるなり、一目散にエレベーターがある方向へと走って行ってしまったため、よく顔が見えなかった。

 もしも野田幸一郎だったとしたら、京子さんに何か異変が起こったのかもしれない。考え始めたらそればかりが気になって、まるで仕事がはかどらなかった。そんなときに限って時計を見るたび、ちっとも時間が進んでいないように感じる。苛立ちを覚えながらようやく業務を終えた私は、制服を着替えるのも後にして、京子さんがいる病棟へ急いだ。

 病室を覗くと、京子さんの姿がない。そんなはずは……と病室の入口にある入院患者の名前のラベルが貼られたパネルを見たが、そこから『野田京子』のラベルが剥がされており、重たいもので頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 ナースステーションにいた看護師に、「京子さんは、野田京子さんは……」と喉の奥に異物がからまっているみたいに、上手く出てこない声で必死に訊ねた。「野田さんなら、観察室ですが……」とナースステーションの目の前に設けられた観察室と呼ばれる部屋に視線をやったので、私もそちらに視線を移す。

 どこからか、心電図の音が聞こえてくる。誰かが鳴らしたナースコールは、ナースステーション中に響き渡り、動き回る看護師からは消毒液の匂いがする。

 私は観察室に目を向けたまま、中へ入っていくのに怖気づいて硬直していた。だけどその先に、京子さんと野田幸一郎がいるはず。「京子さん、また明日」と昨日私は京子さんにそう言って別れた。だから、そう、今日も京子さんは私を待ってくれている。早く会いに行かなければ、また彼女を泣かせてしまうことになる。

 静かに病室内へ立ち入ってみると、部屋全体を膜が張っているような、そんなもわっとした生温かさを感じた。

 奥の窓際のベッドに近づく。

    どうしてこんなにも静かなのだろう──。

    過った不思議を隅に追いやって、カーテンに手をかけた。そっと開く。ベッドの上に、京子さんがいた。ああ良かった、と一瞬安堵し、けれど昨日つけていた酸素マスクは外され、腕に繋がっていた点滴も消えている。

 横でパイプ椅子に腰かけている野田幸一郎は、ぴくりとも動かず、ただただ京子さんのお腹の辺りを一点に見つめているばかりで、私の気配ばかりか、カーテンが開かれたことにもまだ気づいていないみたいだった。

 まるで一組の親子が何者かによって時を止められてしまっているのだろうか。そんな錯覚を起こす。だったら私がふたりの時を戻してあげなきゃ、と深く息を吸い込んだとき、野田幸一郎が短いまばたきをした。

 ゆっくり息を吐き出しながら、同時に胃液まで込み上げてくる。

 野田幸一郎の時は、しっかりと動いている。この空間で時を止められてしまったのは、京子さんひとりだけだった。




 京子さんが逝ってしまった。

 今夜の帰り道を、私はまったく覚えていない。ただ、ちゃんと着替えは済ませていた。事務の制服を着たまま病室へ向かった私は、帰りには更衣室に寄って私服に着替えてから病院の外へ出ていたわけだ。自分の冷静さが癪に障った。

 肌寒いと感じるはすっかり秋めいた季節のせいに限るのか、感情も後押ししているのか。アパートの電気を点けてベッドに腰かけながら、今日は寝たくないと思った。

 二十年以上生きてきて、初めてこの世の仕組みを知った気持ちになった。
    ただし、意味が分からない。生きていれば死ぬことくらいは、理解していたつもりだ。親戚の葬儀に参列した経験だってあるのだから。

 しかし、生と死を分けるその一線とは何なのだろう。昨日まで笑っていたのは私も京子さんも一緒だったのに、今日になって京子さんは死を迎え、私は変わらず生きている。

    何故? どうして?

    京子さんの肉体が悲鳴を上げていて、来るべくときが来たのだとしても、それは本当に今日じゃなければならなかったのだろうか。一分一秒を闘い続けた末、命が尽きる瞬間に、京子さんの意思も少なからず反映されていたと信じてもいいの? 信じていないとどうにかなってしまいそう。

 もうどこを探しても、宇宙上に京子さんは存在しない。いや、厳密に言えばまだ肉体は存在している。すべての機能を停止した状態の肉体は。静かにまた、昨日と同じく長い夜を越えようとしている。じゃあ、京子さんの意識はどこでこの夜を越えるのか。どうしてもう、己の肉体に戻ることが叶わないのか。

    もしも、京子さんが戻りたいと泣いていたらどうしよう。その術が分からず、ひとりきりで朝がやって来るまでを、「あかねちゃん」とついこの間私の手を握りしめて涙したように、彼女がいつまでもいつまでも待ち続けているのだとしたら……。

 自分の死期が近いのを京子さんは最初に入院した時点で覚っていた。だから、「今回は勝てそうにない」けれども「死ぬこと自体は怖くない」と私に打ち明けてくれたのだろう。

    京子さんがすべてを受け止めていたとしても、何の未練もなく死を受け入れていたのだとしても、私には分からない。だって昨日、「また明日」と言った私に手を振り返してくれたんだもの。自分にはまた「明日」があると、あのときの京子さんは心から純粋に信じていたのかもしれないし、確信を持っていたのかもしれない。一体その後に何が起こって、どんな事情があって、京子さんの「明日」は永遠に「明後日」に向かえなくなってなってしまったのだろう。





 思考はぐるぐると回り続けた。時計の秒針がひたすら前へ進む様を見て、一度だって逆へ進んでくれないのは何故なのかとやるせない思いで、胸が痛くなる。

 とうとう眠りに就くことなく、朝を迎えた。
 徐々に空が明るくなりゆく中で小鳥のさえずりが微かに聞こえてくる夜明けが、ここまで穏やかで待ち遠しいものだったのかと知る反面、たとえ生きとし生ける者すべてがこのときに力尽きたって地球は回り続けるのだと想像すると、たまらなく虚しさに襲われた。

 駅に向かって歩きながら、地に足が着いている感触が持てない。電車に揺られる無表情な人々に挟まれ、私もまた無表情を浮かべていた。

    今日という日はもうとっくに始まっていて、上司に「おはようございます」と口にしたとき、今朝この日常的な挨拶を口にしたくても出来なかった人たちが同じ建物内にどれだけいたのか、ふと思いを馳せた。
    ここは、そういう場所でもあるのだ。人が最期を生きる場所。分かっていたはずなのに、まったく分かっていなかった。私は、生と死が繰り返される場所で一日の大半を生きている。

 昼の休憩時、野田幸一郎からスマートフォンに着信があった。気づいた私はすぐさま外へ出た。かけ直すと、「おう、お疲れ」と何とも明るい口調で話しかけられたものだから、一瞬耳を疑う。

「明日さ、式が決まったんだ」

 事情を知らない人間なら、結婚式の日程を告げていると勘違いするであろう口ぶりで彼は言う。

 ごく親しい人たちとの間だけで行う、一日葬。生前に、京子さんが取り決めていたものらしい。

 野田幸一郎に何か言葉をかけなきゃ──。

 そうは思っても、「うんうん」と話を聞くのが精一杯なのがもどかしい。やっとのことで頭に浮かんだ言葉は、「野田くん、ちょっとは寝れた?」だった。

「まあそりゃあ、ぐっすりは寝てないけど、ちょっとは寝たんだろうな」
「うん、少しでも寝れたなら良かった……」
「そういう谷口の方が、実は寝れてなかったりして」

 私が言葉に詰まると、図星かよ、と野田幸一郎がけたけたと笑う。

 母親を亡くしたばかりの人間が悲しみを抱いていないはずはないだろうに、まるでそういった感情を放棄しているみたいに感じて、私はあまり快く思えないまま電話を切った。

 切った後で、野田幸一郎がもう永遠に起き上がることのない京子さんをじっと見つめていた昨日の場面が脳裏によみがえり、今日の夜明けを彼はどんな思いで受け止めたのかを想像していたら、私はこの場から逃げ出してしまいたくなった。

 明日欠勤させてほしい旨を職場に伝えてから、自分が喪服を持っていないことを思い出す。なので仕事を終えるなり、ひとり暮らしのワンルームではなく実家のマンションへ向かった。連絡もなく帰ってきた娘に当然母は驚き、私が喪服を貸してほしいと頼むと今度は悲鳴に近い声を上げる。

「どなたが亡くなったの?」

 クローゼットの中を探りながら母が訊ねてきたので、「友達のお母さんが」と答えようとするのだけれど、いくら声を出そうとしても「と、と、と、と」を繰り返すばかりで、その先が口から出てこない。やっとの思いで、「友達の」まで言えたと思ったら、次には泣き崩れていた。歯止めがきかず、大人の女性が見せる泣き方ではない悲惨とも言える号泣の仕方で。ここまで大声を出したのは赤ん坊の頃以来ではないかというほどに、私は涙も鼻水も関係なく垂れ流して泣いた。

 そんな娘の姿に母も困惑したに違いないが、私の背中をさすりながら静かに急かさず泣き止むまでを待ってくれる。

「友達の、お母さんが、亡くなった、の……」

 どうにか絞り出した声は、自分の耳にも届く。なんて酷い声だろう。

 京子さんが亡くなったのは事実だから、「亡くなった」と表現する他ないにしても、たった一言で人ひとりの一生を片づけてしまう自分が無性に腹立たしかった。だけど私が、京子さんの一体何を知っていたのかと問われれば、彼女を語る資格などないに等しいのではないかと自信がないだけに情けなくもなった。

「そう。じゃあそのお友達も、今とても辛い思いをしてるだろうね」
「うん。野田くん、お母さんのこと、大切に、すごく大切に思ってたから……」
「あかねもその方に、生前お世話になってたの?」

 首を縦に振りながら、高校時代の出来事が昨日のことのように思い出された。
    到底ひとりでは生けていけなかった私をひとりにしないでくれた、制服姿の野田幸一郎が笑っている。彼がいつも穏やかな笑顔を見せてくれていたのは、彼に愛情を注ぐ京子さんがいたからに他ならなかった。

「死と直面したときは、悲しくてたまらないわよね。苦しいし寂しいし、いつかそういう感情が鎮まっていくときが来るとしても、そんな未来まで耐えきれるのか不安になるでしょ」
「うん……」
「でも、生きるしかないから。ひたすら生きるしか。生きてる限り亡くなった人の尊さわ忘れないように、私たちはひたすらね」
「お母さんは、おばあちゃんが亡くなったとき、どう乗り越えたの?」

 母は斜め上を見つめて、「うーん」と少し考えてから、諦めたように笑い「乗り越えてなんかいない」ときっぱり言った。

「どうしたって、悲しいものは悲しいじゃない。たとえば死後にも死後の世界があったとして、母親が今はそこで楽しく幸せに過ごしているとしても、思い出を辿ると寂しさで胸が張り裂けそうになるのよ。いくら時間が経っても、寂しさが薄れたりなんかはしない。だって、同じ人間はひとりとしてこの世にいないんだからね。悲しくて寂しいのは当然でしょ。ただ、大切な人の死を受けて深く傷を負ったからって、それを完璧に癒そうとか紛らわせようとか考えなくていいと思えるようになったとき、少しは気持ちが楽になれたのかもしれないけどね」

 私は乱れていた呼吸をいくらか整え、指で涙を拭い鼻水をすすった。

 乗り越えてなんかいない──。

 母の言葉のストレートさが、じわじわと私に衝撃を与える。

 あのときもこのときも、母は乗り越えていない悲しみを抱えたままで娘の私を心配したり、励ましたりしてくれていた。

    母との思い出を辿って私もいつか寂しさで胸が張り裂けそうになるのだろう。そんなの怖くてたまらない。たまらないから、「夕飯食べていってもいい……?」と私は母の腕に絡みついて甘えずにはいられない気分になった。

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書き留めていたい。東京在住。30代前半。猫派。ポジティブにもネガティブにも偏りたくない。極度の方向音痴。鬱・社会不安・PMS・難病…諸々アリ。小説や詩、エッセイなど投稿しています。誰かの役に立てたらすこぶる嬉しい。そして、今日も生きている。Twitter:@k_hiroko888
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