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小説『灯火』⑧-1

⑧この灯火を絶やさない

 あ、ひぐらしが鳴いてる。

 気づいたときには、職場のカレンダーも九月になっていた。目の前の一日一日に夢中になっていると、「一週間なんてあっという間」と毎週同じ感想を口にしている。

「谷口さん、最近よく声が出るようになったわね」

 主任から先日、お褒めの言葉をいただいた。自分でも何となく実感していただっただけに、嬉しさで顔をほころぶ。

 仕事に慣れてきたとはいえ、やっぱり人前に出る際は緊張する。「まだ暑さが続くわね」と優しく声をかけてくれる患者さまもいれば、「待ち時間をどうにかしろ!」と目を吊り上げて怒りを露わにしてくる患者さまもいる。どういった接遇が期待されているのか、日々考えさせられるものがあった。

 都内のプラネタリウムで学さんとデートを終えて帰ってきた日曜日の夜、野田幸一郎から電話があった。

 京子さんは八月中に一度外来を受診していたが血液検査の結果が良いとは言えず、引き続き抗がん剤を投与するのが難しいため入院の話がなくなった、とまでは事情を聞いていた。

    その後の調子はどうだろうと気にはなりながらも、電話をかけるタイミングが掴めずにいたので、「京子さんの体調はどう?」とこちらが訊こうとするよりも早く、「実は、今日緊急で入院した」と告げられた。これまで電話口で聞いてきた彼の口調とは明らかに異なり声のトーンが低くくぐもっていたので、私は思わずその場で正座をしながら話の続きを聞いた。

 抗がん剤治療を終えて退院した後、京子さんの体調は思わしくない状態が続いていたという。元々食が細くなっていたが、最近はより一層食欲が減退し栄養状態が安定しないことや夏の暑さが手伝って体力を消耗していたこと、その上どうやら息遣いも苦しそうにしていたので、不安に感じた野田幸一郎は今日の昼前に救急で診てもらおうと京子さんを車で病院まで乗せて行ったそうだ。すぐに血液検査を実施したら、炎症の値が前回の検査よりぐんと上昇していたという。感染症などの疑いもあるため、その場で入院が決まったとのことだった。

 野田幸一郎から電話をもらった翌日の月曜日、私は仕事終わりに京子さんのいる病室に顔を出した。今回は廊下側に面したベッドを使用していた京子さんは腕に点滴をしながら目を瞑っていたけれど、気配を感じたのかすぐに目を開いた。私を認識するなり、「あかねちゃん」と力ない声を出した後、ゆっくり口角を上げた。

「京子さん、夏バテしちゃいましたか?」

 声をかけると上半身を起こそうとするので、「あ、寝てて大丈夫ですよ」と私は慌てて京子さんを制した。

 先日入院したとき、ベッドの上で私を待ち構えていた彼女とは、別人のように見える。短期間に年をとってしまったみたいに、京子さんの動作はとてもゆったりとしていて、「冷たいお水が飲みたい」と一言口にするのにも、体内の全エネルギーを集中させているのではないかと思うほどだった。

「どうも力が出なくて」

 困ってしまった、とばかりに京子さんは眉根を下げる。

「夏の疲れが出ちゃったんですよ。私も今年の夏は、熱帯夜でなかなか寝つけなかったです」
「夜は、眠れないと永遠みたいに長いわね」
「そうですね。暗いから、寂しくもなります」
「でも、必ず朝は来る」
「希望の朝、ですね」
「後何回、私は希望の朝を迎えられるかしら」

 天井を見つめながら、京子さんは自分自身に問いかけているふうだった。

「幸一郎は、まだ仕事よね」
「はい。でも、終わったらここに来ますよ」
「あの子も、疲れてるのに」
「京子さんの顔見れば、疲れも吹っ飛ぶんじゃないですか」
「幸一郎……」

 息子の名前を呼ぶなり、京子さんは目を瞑って眠りに入ってしまった。
 私はそっと布団を掛け直してから、この日は帰宅した。

 前回のときと同様、私は出来るだけ病室を訪れようと決めた。
    京子さんは調子がいいときは上半身を起こしていたし、悪いときは時折小さく呻き顔を白くして横になっていた。ベッド脇に来た私に気づくと、息子の話を口にする。本人の承諾を得ず、こんなに野田幸一郎のエピソードを聞いてしまっていいのだろうか、と思いながらも私は京子さんの話に興味深く耳を傾けていた。

 小学校低学年のとき、野田幸一郎は盲腸の手術を経験しているらしい。当時の彼は、京子さんにこう言ったのだそうだ。

「これがお母さんじゃなくて、良かった。こんな痛い思いをお母さんがしなくて良かった。僕で本当に良かったよ」

 微笑ましいエピソードは、どれも野田幸一郎という人間の心根を象徴していた。

 息子の話をした後で、目の縁に涙を溜めた京子さんは、「あれから随分と時は経ったのね」と呟く。

 きっと野田幸一郎は今、こう思っているに違いない。病気が母親にではなく自分のところにやって来れば良かったのに──と。

 京子さんの様子を見るたび、彼女は今日一日をどのように受け止めて生きたのだろう、と考える。ベッドの上で静かに過ごす時間は、それこそ永遠のように長く感じられるのだろうか。

 仕事をしてご飯を食べて、同僚と談笑し、家に帰ればトイレもお風呂も行きたいときに行って、テレビを観て笑い、恋人と他愛もない会話を電話でしている間に眠くなる。
    それなりに充実した生活を送っていた私は、あっという間に時間が過ぎていくことにこそ、今を生きている実感を得ていた。

 だけど、自分が仕事をしている場所からわずかに離れただけである入院病棟へ足を踏み入れると、途端にそこでは時間が流れているのかいないのかが分からなくなり、心細くなるのだった。

 京子さんは、ついに自力でトイレに行くのが困難になった。以降は看護師に付き添ってもらいながらトイレに行っていたが、看護師も彼女に付きっきりで介抱出来るわけではない。尿意を感じたときにはもう間に合わなくなっている場合が多くなり、オムツを穿かざるを得ない状況となった。

 京子さんはそれを嫌とも言わず、はあ、と深くため息をついて、「手間をかけさせてしまって申し訳ない……」と罪悪感を抱いているようだった。だから、「京子さん、申し訳ないはこれから禁句ですよ」と私が軽い調子で言うと、「あかねちゃんにも、いつも来てもらっちゃって申し訳ない」と次の瞬間にはもう禁句を口にするものだから、私も彼女もついつい笑ってしまった。

 入院してから一ヵ月が経った頃、京子さんはこれまで息子の話をよくしていたのに、急に「主人は」とすでに遠い昔病気で亡くなっているご主人の話をするようになった。

「主人はとても背が高くて、待ち合わせのときはよく目立っていたわ」
「じゃあ野田くんは、その遺伝子を引き継いだんですね」
「私を愛してくれた人。ねえ、あかねちゃん、あなたも恋人がいるんでしょ?」
「います。すごく大切な人が」
「奇跡みたいよね。相思相愛の人と出会えるって」
「そうなのかもしれませんね」
「その奇跡を私は、ずっと胸に抱いて生きてきた。それが時に希望になって、時に勇気にもなって、時に癒しを与えてくれた。私、あの人との間に子供を産めたことが嬉しくて仕方ないの」

 まるで、たった今しがたの出来事を振り返るかのように、京子さんはとても美しい笑顔を浮かべていた。このときばかりは、すべての苦痛から解放されていたのだろうと思わずにはいられなかった。それくらい、京子さんの笑顔は喜びと若々しさで満ち溢れていたのだから。

 いつしか十月も一週目が過ぎていて、夕刻になると虫の音が心地よく響くようになった頃、私は仕事でミスをした。外来の予約がある患者さまの紙カルテを、同姓同名の別人のものと間違えてカルテ庫から用意してしまったのだ。医師が診療にあたる直前にそれに気づき、即刻内線電話がかかってきた。きつくお叱りを受けたのは言うまでもない。

 今やどこの病院も電子カルテの時代ではあるが、紙カルテの情報すべてを電子化するのは極めて難しい。そのため、紙カルテも顕在しており、補足的な情報が必要になるときは医師からの貸し出し依頼がよく来るのだ。

 私はひどく落ち込んだ。「仕事に慣れてきた」と学さんや両親に報告していた矢先、こんなミスをするなんて……と。大きく膨らんでいた風船が音を立ててしぼんでいく気分だった。

「この場で落ち込むのは禁止、禁止。今度ふたりで反省会するってことで、今日は頭切り替えていこう!」

 橋本さんから励まされ、私は頷きながらも頭の中ではずるずるとミスを引きずっており、憤慨していた医師の顔が瞼の裏に焼きついて離れなかった。

    だからこの日は、京子さんの病室にも顔を出さず、家に帰るなりベッドの上に倒れ込んでひたすら落ち込みモードに入っていた。シャワーも浴びずにギュッと強く目を瞑り、早く夢の中に逃げ込んでしまいたかった。

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書き留めていたい。東京在住。30代前半。猫派。ポジティブにもネガティブにも偏りたくない。極度の方向音痴。小説や詩、エッセイなど投稿しています。誰かの役に立てたらすこぶる嬉しい。そして、今日も生きている。Twitter:https://twitter.com/k_hiroko888
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