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小説『灯火』⑦-1

⑦至福のひととき

 熱帯夜が続く。
    昨年クーラーを購入する余裕がなく、扇風機で夏を乗り切った。来年の夏までには買えたらいいな、という願いも虚しく再びこの季節が巡ってきてしまった。

 毎年熱帯夜が叫ばれつつも、それが原因で寝つけない苦労をした経験はなかった。
    ところが、今年はどうだろう。アイス枕をして、脇に保冷剤を挟んだりしながら、何度も寝返りを打たなければ睡魔は訪れない。
    ようやく眠りに就けたと安心しても、ふと夜中に目が覚めたとき、「京子さんは上手く眠れているかな」と考える。

 野田幸一郎と電話で話した際、こんな暑い時期は病院で過ごしてる方がかえっていいのかもしれない、と本音を漏らしていた。京子さんとふたり暮らしを続けている彼は自分が仕事をしている最中に「おふくろが具合を悪くしたらどうしよう」といつも不安になるという。近々病院を受診し、血液検査などをして問題がなければ再度抗がん剤治療を受けるための入院日程を立てるらしい。

 八月も中旬を迎えたこの日の土曜日も、朝起きると汗で全身がべとべとしていた。シャワーを浴びても、狭いユニットバスでリラックスするのは難しい。

    だから、月に一度は銭湯へ行くと決めいていた。先日初めて母に話したところ、「銭湯? 若者らしくない趣味ねえ」と笑われた。実際、私が行く銭湯で若い女性の利用客は見かけない。もう少し距離を置いた場所にあるスーパー銭湯なら、年代に関係なく賑わっているとの情報をネットの口コミで見かけるけれど。

 昼になれば更に暑さは増していき、ちょっと床を拭き掃除したり洗濯したカーテンを取り付けたりしただけで、軽いスポーツを終えた後と同等に汗でTシャツが湿っていった。

 ユニットバスの扉の前でしばらく立ち尽くしていたら、行きたい欲求が抑えきれなくなってくる。今月はすでに一度銭湯へ足を運んでいたのだが、次回行くために必要なタオルなどをあらかじめセットしてあるトートバッグに手が伸びていた。

 蝉の合唱が静まる気配がまるでない夕刻、私はバスに乗り込んで銭湯を目指した。

 入浴料金は、大人四六〇円。十月には一〇円値上がりするそうだ。「節約」の二文字は常にあれど、銭湯でお風呂上りのビールならぬ、瓶に入った牛乳を飲む瞬間は、至福のひとときと言ってもいい。

 カウンターで料金を支払うと、「本日もごゆっくり」と受付のおばちゃんに微笑みかけられた。

 ひっそり通っているつもりだったけど、すでに私、常連客に認定されてる?

 女湯の暖簾をくぐり中高年世代に混ざって脱衣所で服を脱ぎながら、若者らしくない趣味ねえ、と笑う母を思い出し複雑な気分になったりもする。

    だけど、浴場へ続く引き戸を開けるなり目に飛び込んでくる、タイルの壁に描かれた壮大な富士山には毎度心奪われる。昭和のドラマでしか見たことのなかった光景に足を踏み入れいてるのも、ひとつのアトラクションを楽しんでいる気分が得られた。

 大きな浴槽に身を沈められる開放感。若者らしくなくて悪かったですね、と肩まで浸かりつつ開き直る。スーパー銭湯に負けず劣らず、ジェットバスやサウナだって一応ここには完備されているのだ。

 四六〇円分を存分に堪能すべく、湯船には二度浸るのが私のお決まりのパターン。

 一度目の入浴を終えて、脱衣所でTシャツに手を通したときだった。

「え、おばあちゃん、またハガキ出したの?」

 背後で珍しく若い女性の声が聞こえてきた。ちらと振り返ってみると、籐の椅子に腰かけている女性の美しい背中が目に入る。どうやらサウナから出てきたばかりらしい。タオルで額の汗をしきりに拭っている。

「どうせ、またダイちゃん目当てでしょ。好きだねえ、おばあちゃんも」
「だって、ダイちゃんカッコイイじゃない」

 隣に座る白髪の女性と交わしている会話の内容からして、おばあちゃんと孫だろうか。

    着替え終えた私は微笑ましく感じながら脱衣所を出ると、至福のひとときを味わうべく牛乳を購入して休憩スペースへ移動した。

 片手を腰にあてがいながら、仁王立ちでごくりと飲み込む。「美味い!」とばかりに、あー、と漏れる声。そうやって冷蔵庫の前でお風呂上りに缶ビールを飲んでいた父を思い出し、遺伝かしら、と苦笑した。

 足音が聞こえて、ふと休憩スペースの入口に目をやる。先ほどのおばあちゃんと孫がこちらへやって来るところだった。

「さてさて、ちょっとテレビでも観ながら休憩しようかね」
「おばあちゃん、うっかり寝込んだりしないようにね」

 さっきは座っていたから気づかなかったけれど、孫の女性はスラリと背が高く、どことなく雰囲気が職場の先輩の橋本さんに似ている気がした。

 おばあちゃんは長椅子に腰掛けるなり、その場にいた顔見知りの常連客の女性と挨拶を交わしている。一方孫は、休憩スペースの片隅にあるマッサージチェアにどかりと深く腰を沈めた。

 飲み終えた牛乳の瓶をケースに片しつつ、私は何となく孫の存在が気になった。
    まさかね。まさか、こんなところにあの橋本さんがいるはずがないよね、と思いながら、短パンから伸びる長い脚の美しさに惹かれるように、目を瞑ってマッサージチェアに座る女性の前をさりげなく通り過ぎようとした。

    が、その「さりげなく」があまりにぎこちなくて、薄目を開いた彼女とばっちり目が合ってしまう。

「あ、谷口さん」

 先に私の名前を呼んだのは、相手だった。

「ど、どうも。こんにちは」
「奇遇ね。家、近いの?」
「はい。橋本さんもですか?」

 マッサージチェアに座っているのは、紛れもなく橋本さんだった。サウナ上りで顔をてかてかさせた、すっぴんの橋本さんだ。

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書き留めていたい。東京在住。30代前半。猫派。ポジティブにもネガティブにも偏りたくない。極度の方向音痴。鬱・社会不安・PMS・難病…諸々アリ。小説や詩、エッセイなど投稿しています。誰かの役に立てたらすこぶる嬉しい。そして、今日も生きている。Twitter:@k_hiroko888
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