武漢攻略戦で毒ガス兵器を本格的に使用した日本軍

 82年前の今日(1938年10月27日)は、日本軍が武漢三鎮(26日に漢口・武昌、27日に漢陽)を占領した日である。
 38年8月に大本営の命令によって始まった武漢攻略戦は2カ月に及んだが、中国国民政府は同年6月の段階で首都機能を重慶に移転させていた上、中国軍の主力も作戦にしたがって退却しており、日本側の国民政府に大打撃を与えるという目標は達成できなかった。
(写真は、『写真週報』1938年11月9日号より)

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以下、笠原十九司著『日中戦争全史』下巻「武漢攻略戦」から引用する。

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【武漢攻略作戦】

 中国国民政府軍の主力の殲滅をめざした徐州作戦に失敗した大本営が、つづいておこなったのが、武漢攻略作戦(武漢作戦、漢口作戦ともいわれる)であった。武漢市は、湖北省の省都であり、長江に漢水が合流する地点に大河をへだてて向かい合う武昌・漢口・漢陽の三鎮(都市)からなる(地図②と地図③参照)。長江中流の中心地で、京漢鉄道(北京─武漢)と粤漢鉄道(広州─武漢)の起点になっている要衝で、南京から重慶へ首都を移すことを宣言した蒋介石国民政府が、武漢に暫定的に首都機能を移していた。また、国民政府軍の軍事機関と施設が集中し、中国軍の主力が集結していた。

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 武漢攻略作戦の実施は、一九三八年六月一三日の大本営御前会議で決定され、つづいて六月二四日の首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議で「支那事変の直接解決に国力を集中指向し、概ね本年中に戦争目的を達成することを前提とし、内外諸般の施策をして総て之に即応せしむ」とする「今後の支那事変指導方針」を決定した。
 大本営と政府は、武漢攻略作戦ならびに広東作戦の大作戦を実施して、年内に日中戦争の決着をつける方針を立てたのである。したがって武漢作戦は、古来の要衝の武漢三鎮を占領することによって、蒋介石政権に政戦略上の大きな打撃を与えて屈服を余儀なくさせ、日中戦争を一気に解決することを目的としておこなわれた大作戦であった。
 これと連動した広東作戦は、海外からの蒋介石政権援助物資の大輸入路として、日本海軍の沿岸・沿海封鎖作戦から唯一残っている広東を占領して、経済上の活路を奪うことを目的とした。武漢作戦と広東作戦の両作戦をおこなえば、蒋介石政府の死命をほぼ完全に制することになり、屈服させることができると判断したのである。大本営と政府は、依然として「中国一撃論」の作戦思想に拘泥していたのである。
 武漢攻略作戦には、国民政府の首都の移転先である奥地の重慶を爆撃する航空基地を獲得するために、武漢地区を占領したいという海軍からのつよい要請もあった。
 武漢作戦は、八月二二日の「中支那派遣軍は海軍と協同して漢口付近の要地を攻略占拠すべし。この間成るべく多くの敵を撃破するに努むべし」という大本営の命令によって開始された。同作戦に投入された日本軍は、北支那方面軍から転用されてきた第二軍の四個師団と新たに編成されて中支那派遣軍の隷下に入った第一一軍の五個師団であった。合わせて九個師団であるが、戦時編制の一師団の兵員は平時編制のおよそ二倍の二万以上であった。さらに、陸軍の航空兵団、海軍の第三艦隊の大半、海軍の第二連合航空隊が参加したので、武漢作戦には総勢四〇万弱の日本軍が動員された。当時、日本の陸軍総兵力が三四個師団で、二三個師団を中国戦場に送り、満州と朝鮮に九個師団を配備してソ連にそなえ、内地には二個師団を残すのみであった。
 中国は武漢防衛戦と称したが、第一戦区(河北省・山東省)、第五戦区(江蘇省北部・山東省南部)、第九戦区(湖北省・武漢)から兵員を動員し、総兵力は一二〇個師あまり、一〇〇万人近くで、空軍の飛行機二〇〇機、海軍の艦艇三〇隻余を投入した。ソ連の空軍志願隊も武漢防衛戦に参加、日本軍機と空中戦を展開した。
 武漢地域は広域であるうえに北方は山岳地帯、平地は大河と多くの湖沼のある湿地帯が多く、しかも武漢は、中国の「四大火鍋(夏に酷暑となる南京・武漢・成都・重慶)」といわれている一つの武漢の夏の炎熱のなかでの戦闘であった。多数の部隊は、炎熱のなかを、鉄道・船舶による長途の輸送、悪路の行軍、長時間を要する渡河、補給の不十分、コレラ・マラリアの流行などにより、人馬ともにその体力を消耗し、発病者が多数におよんだ。戦わないうちに野戦病院は患者で充満するありさまで、病死者が多くでた。第一一軍司令官岡村寧次の報告には「約四〇万に垂々とする総兵力の中、約一五万に達するマラリア患者の治療」のために戦力が低下したと述べている。
 日本軍は、一九三八年一〇月二六日に漢口・武昌を占領、二七日に漢陽を占領して武漢三鎮を完全占領して武漢攻略作戦は終了したが、中国軍の主力は作戦にしたがって退却しており、中国軍に大打撃をあたえるという目的は達成できなかった。南京失陥以後武漢に暫定的な首都機能をもたせていた国民政府は、日本軍の武漢侵攻を予期して、すでに六月には各機関をさらに奥地の四川省重慶に移転させていたので、日本側が企図した国民政府の「潰滅」にはとうていおよばなかった。
 二カ月におよんだ武漢攻略作戦の戦闘は、日中戦争、中国にとっては抗日戦争における最大規模の戦闘であり、日中両軍の犠牲も大きかった。日本軍側の記録では、武漢作戦によって第二軍の戦死者は約二三〇〇人、負傷者約七三〇〇人で、戦果は、中国兵の遺棄死体約五万二〇〇〇人、俘虜約二三〇〇人であった。日本軍の被害のなかで戦病者は特に多く、第二軍の総兵力一七万にたいして罹病は半数以上に達し、野戦病院に収容患者二万五〇〇〇人余、うち病死した者約九〇〇人(コレラによるもの三〇〇人)であった。この戦病率は、日中戦争および以前の戦争例にもない高率のものであった。
 同じく第一一軍の戦死者は四五〇六人、戦傷者一万七三八〇人で、戦果は中国兵の遺棄死体約一四万三四九三人、俘虜九五八一人であった。
 第二軍と第一一軍を合わせて日本軍の戦死者六八〇六人、負傷者二万四六八〇人となり、中国兵の戦死者は約二〇万人に達した。中国側の記録では、日本軍の死傷者四万人余、中国軍の戦死傷者は四〇万人前後となっている。中国では、戦争犠牲者数について、戦死者と戦傷者を区別しないで一緒にして、戦傷者として表記するのが一般的である。

◆毒ガスの本格的使用

 日本も批准した「ハーグ陸戦条約」(一九〇七年)の条約付属書の「陸戦の法規に関する規則」の第二三条【禁止事項】に「イ 毒又は毒を施したる兵器を使用すること」「ホ 不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物その他の物資を使用すること」が定められている。
 「戦闘の害敵手段、攻囲及砲撃」に毒ガス弾(爆弾・砲弾)を使用すること、および毒ガスの放射、散布などを禁止したのである。しかし、第一次世界大戦ではドイツが使用したのをはじめ、全面的な毒ガス戦がおこなわれたので、その反省から一九二五年六月ジュネーブにおいて「毒ガス・細菌兵器の使用禁止に関するジュネーブ議定書」が調印され、日米を除く主要国がほとんど批准して加盟国になった。日本は軍縮会議などで毒ガス・細菌兵器の使用禁止について積極的な発言を繰り返したが、アメリカが批准しなかったので、自らの手を縛りたくないと考えて批准しなかった。日本が批准したのは、戦後二五年たった一九七〇年、アメリカが批准したのはベトナム戦争後の一九七五年であった。
 日中戦争当時、日本は毒ガスや細菌兵器が国際法では禁止されていることを承知していながら、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争の全面化とともに戦闘での使用を開始し、武漢攻略作戦において、本格的に毒ガス作戦を発動した。
 武漢戦場の北側の険しい山岳をふくむ悪路の進軍を命じられた第二軍は、各部隊に毒ガス戦資材を配分し、自主的に毒ガス戦を展開するよう指導した。そして、姫路第一〇師団を化学戦力の主力に指定して優先的に配分し、第二野戦瓦斯隊を配属した。京都第一六師団は迫撃第五大隊を配属したが、この迫撃大隊に主として毒ガス弾を装備させた。第二軍の各部隊が毒ガスを使用したのは、大隊以下の単位だった。
 武漢作戦において、もっとも大規模に毒ガス兵器を使用した例は、第一一軍の熊本第一〇六師団(師団長松村淳六郎中将)による三八年八月二九日午前七時ごろの高地の戦闘における使用だった。あか筒(嘔吐性ガス筒)一二〇〇本、みどり筒(催涙筒)三〇〇本、発煙筒四〇〇本、迫撃砲あか弾三〇〇発が同時に使用された。使用された毒ガスは、正面二キロ、縦深二キロの地形に約四〇分も低迷し、国民政府軍は陣地を捨てて退却した。
 第一一軍でもっとも多くの毒ガス兵器を使ったのは、東京第一〇一師団(師団長伊東政喜中将)で、あか筒三八〇五本、あか弾八九五発を使用した。一回の戦闘での使用量が、あか筒九〇〇本以上の場合が二回もあった。岡村寧次第一一軍司令官は「特種煙攻撃を実施せる地域の敵は勉めて殲滅を期し、之が逸脱を防ぐものとす」として、秘密保持のため、毒ガス攻撃を受けた国民政府軍兵士を皆殺しにするよう命令した。第二軍司令部も、毒ガス兵器使用の場合は「機を失せず効果を利用し、敵を殲滅し、以て之が証跡を残さざるに勉む」と教育していた。第一一軍、第二軍を通じて、毒ガス兵器使用の秘密保持のため、嘔吐性ガス(あか筒、あか弾)を吸いこんだり、催涙性ガスを浴びて戦闘不能となった国民政府軍兵士を刺殺したのである。
 日本軍が、戦時国際法で禁止されていることを認識しながら中国戦場において、毒ガス兵器を公然と使用したのは、中国人にたいする差別意識があった。それは、南京攻略戦において、中国兵の捕虜・投降兵・敗残兵をハーグ陸戦条約に反して集団虐殺したことにも示された。日本軍は、日露戦争、第一次世界大戦(日独戦争)においては、中央に俘虜情報局、各地に俘虜収容所を作って、きちんと捕虜の待遇をしたのであるが、日中戦争では全期間をつうじて、正規の俘虜収容所は作らなかった。アジア太平洋戦争においては、アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍の捕虜にたいしては、中国軍の捕虜にたいしてのようにいっせいに集団殺戮をするようなことはしなかった。
 毒ガスも同様で、後のアジア太平洋戦争において、アメリカ軍やイギリス軍にたいする毒ガス兵器の準備・配備はしたものの、使用は概して抑制された。一九四四年には、アメリカ軍にたいする毒ガス兵器の使用を禁止する命令を出している。それは、アメリカ軍が報復として日本軍にたいして毒ガス兵器を使用することを回避しようとしたまでで、戦時国際法遵守ということではなかった。吉見義明『毒ガス戦と日本軍』(岩波書店)が明らかにしたように、武漢作戦以後、日中戦争における毒ガス兵器の使用は恒常化し、毒ガス作戦はエスカレートするいっぽうで、使用も大規模となった。戦時中の中国には、毒ガス兵器を製造する科学技術や設備がないことを見越して、中国軍からの毒ガス使用はないと判断して、公然と使用したのである。

◆ペン部隊の派遣

 徐州作戦では、火野葦平を従軍作家に仕立てあげ、兵士や国民の戦意高揚に成功した軍部と政府は、武漢作戦を利用したさらなるメディア戦略を展開した。三八年八月半ば、内閣情報部から文藝春秋の社長で、『恩讐の彼方へ』『父帰る』などの作品で知られていた大物作家菊池寛に、作家たちを中国戦場へ派遣したいので協力するようにという要請があった。軍の求めに応じた菊池寛が中心に動いて、当時の人気作家、流行作家たちが集められ、声をかけられた作家たちは進んで応じた。従軍作家たちはペン部隊(文学部隊とも)といわれ、陸軍と海軍の二班に分けられて九月中旬、武漢作戦の現場に派遣された。陸軍ペン部隊のメンバーは、林芙美子・深田久弥・川口松太郎・尾崎士郎・丹羽文雄・岸田國士・久米正雄・瀧井孝作・片岡鉄平・浅野晃・佐藤惣之助・中谷孝雄らで、海軍ペン部隊のメンバーは、菊池寛・吉屋信子・佐藤春夫・吉川英治・小島政二郎・北村小松・浜本浩らであった。さらに軍歌を作詞、作曲しまくった感のある西条八十や古関裕而らで編成された詩曲部隊も同じころ中国戦地へ出発した。
 陸軍ペン部隊は九月一三日に福岡の飛行場から出発、海軍ペン部隊は一四日に羽田飛行場から上海へ出発したが、当時の日本社会では飛行機に乗ることは特別待遇であった。上海飛行場に着いた陸軍ペン部隊を迎えにきて接待したのは、中支那派遣軍報道部にいた火野葦平であった。『麦と兵隊』のベストセラーで、すでに国民的作家として時代の寵児になっていた火野は、作家たちから「われらの英雄」ともてはやされたという。
 従軍作家たちは中支那派遣軍報道部へ直行して、「従軍文芸家行動計画表」を渡され、三週間近くの「武漢攻略戦戦闘地域の視察」について説明をうけた。そのさいに、同報道部作成の「(秘)従軍記者ノ栞」の「従軍記者に対する希望」に記されていたように、「今度の作戦こそは本事変中最も華々しい最も意義深い大会戦」であるから、興味本位のニュース報道に偏ることなく、「戦場将兵の活躍振を遺憾なく国民に伝えること」「皇軍の正義を尚び軍紀の厳正なること」を伝えることなどを要請された。
 ペン部隊のヒロインとして大活躍をしたのが、『放浪記』(一九三〇年)がベストセラーとなり、女流人気作家になっていた林芙美子だった。『朝日新聞』(三八年一〇月二九日)は、「ペン部隊の『殊勲甲』芙美子さん漢口に一番乗り」という見出しで、「ただ一人の日本人女性として林芙美子女史が漢口に入城した」「林さんの勇敢さと謙虚さに全軍将兵心から尊敬し、感激した」「林さんの漢口入城は全日本女性の誇りである」とセンセーショナルに報道した。
 ペン部隊の活躍が新聞紙上で華々しく報道されたのは、後述するように、日本国内で、政府と軍部、中央と地方の官庁の肝いりで漢口陥落の戦勝祝賀行事が展開されている最中だった。日本に帰国した従軍作家たちは早速、祝賀ムード演出のため講演会に連日のように駆り出された。林芙美子の場合は、一一月一日に大阪中之島の朝日会館でおこなわれた「武漢陥落戦況報告講演会」で講演、翌二日には東京の日比谷公会堂と九段軍人会館の二カ所の「武漢攻略報告講演会」で講演、さらに三日は再び大阪で講演、一二日は九州の小倉勝山劇場、一四日は熊本公会堂においてと、精力的に講演活動をおこない、どの会場でも超満員の観客が押し寄せた。
 ペン部隊の作家たちは、雑誌につぎつぎと従軍記を寄稿し、新聞紙上や雑誌などに頻繁に対談や座談会を掲載して、過酷な戦場で、「支那膺懲」のために意気軒昂に戦っている日本軍部隊、将兵の奮闘ぶりを銃後の国民に伝え、国民精神総動員運動や総力戦体制強化のための国民世論の形成に貢献した。
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