冬が好きだ

夏は俺を殺そうとしていて、冬は俺を守ろうとしているかのように感じるというのが昔からずっとあって、夏が狂暴に見えてしまうのは単に直射日光の攻撃性がそうさせるのに加え、汗、日焼けなど、太陽から食らったダメージがハッキリと身体に現れるという分かりやすさも暑さへの偏見を加速させるのだと簡単な分析をしたところで考えるのは、夏が味方をしてくれるのは、例えば木々の青さや海の雄大さといった人工的でない景色たちだけであって、人間のことなど何も考えずにギンギラギンと叫んでいるその明るさはバーサーカーの目の色に他ならないわけで、それを楽しもうとする姿勢というものは、薄汚い生命体のくせをしながら母なる地球に歯向かおうとすることと同義なのではないか、ということだ。夏が嫌いだというのは、大いなる存在による我々への攻撃を受け入れるということで、それはつまり、私が地球のすべてを愛しているという博愛に他ならないのだ。

一方の冬。動物は冬眠をするし、人間にも夏は外に、冬は家に、といったイメージが何となく根付いているのを見ても、逆らって楽しもうとするような季節ではないことが分かる。寒さから身を守るために服を着こみ、極力外に出ず、温かい暖炉の前で過ごす、という、この防御のムーブが、先ほど夏で語ったように、攻撃を受け入れるという点において、いたく誠実な行動であるように思えるのである。冬になると私は、人間は常に防戦一方であるべきだとする独自の思想に、霜が振り、白く染まって、神の指によってハートになぞられるという、いびつな季節の感じ方をし、楽しんでいる。

夏に、何か思い出はあるだろうかと探してみると、無い。いや、きっとあるはずなのだが、暑さによってなのか、夏への反発心によってなのか、そんな記憶は脳内で溶けてしまっているかのようで、夏について残っている記憶といえば今年、網戸に向かって延々と飛び続けているガガンボの後ろ姿だけだ。外に出んとするあまりに網戸が目に入らなかったのか、暑さで頭がおかしくなってしまったのか、躍動する羽が網戸にあたるブブブブブという音が大変に不快で、同時に哀れで、普通こんなにも長時間生きたガガンボの後ろ姿なんて見られないだろうなと思いながら、泣く泣く殺生に至ったのだ。私の夏の思い出は以上となる。

しかし、冬の思い出は豊富にある。まず、上京をしたのが3月だから、春先とはいえ、冬だ。「3000円しか持っていないから」という理由で成人式・同窓会への出席を断ったのも冬。池袋のバイト先で、地元の同窓会に参加している友人たちから電話がかかってき、大変に嬉しかったのも冬。さらにその冬は、東京で雪が積もった特別な冬だった。

河口湖のペンションに旅行に行き、極寒の中ベランダで流星群を見まくったのも冬。青春18きっぷを使って、友人たちと新宿から新潟まで行ったのも冬。余った1枚を俺が譲りうけて、ひとりで津田沼まで行き、人生で初めてひとりでラーメン屋に入ったあの日も冬。津田沼の有名なくさい道がマジでくさかったのも冬。行きたかった津田沼の古着屋に入る勇気がなく、店の前を3往復することで「行った」と見なしたのも冬だ。

熱海に旅行に行き、旅館でハイボールを1杯しか飲んでいないのに気持ちが悪くなって、バタバタと走ってトイレに行き、その拍子で障子を倒してしまい寝ていた友人が下敷きになったのも冬。そこで財布をなくしたのも冬。財布を無くしているというのに、帰り道に入った喫茶店でたまごサンドセット1200円を注文したのも冬だ。

とにかく冬にはたくさんの思い出があるので、次は2020年の冬を振り返る記事を書こうと思います。私のことなぞ誰も興味がないとは存じますが、よろしくお願いいたします。

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