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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.16-② 蛇足 ~ 消えたギター ~

【ギターの行方】

「布袋のギターが盗まれたって、大騒ぎになったんだけどさ。ここにあるんだよ。借りるよ!って言ったのに、布袋が忘れてたんだよ」
氷室邸でNeo Fascioのミーティングをしていた時に氷室氏がそう言ったというツイートを以前お見かけした。ディレクターの森谷司牟氏が呟いたものである。(※1) 
森谷氏は、氷室氏のソロ初期のプロジェクトに深く関わっていた人物。現在はお互いL.A.在住ということもあって、時折氷室氏絡みの話題をTwitterに投稿されている。

ここで話に出てきた「Neo Fascio」とは、1989年9月27日発売の氷室氏の2ndアルバム
同アルバムに収録され、先行シングルにもなった「SUMMER GAME」が、昭和天皇の大喪の礼の頃に制作されたというエピソードなどから、ここでいう「Neo Fascioのミーティング」は、ライブツアー「KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"」(1988年10月1日~1989年1月4日)終了後の1989年の年明けから春頃に行われたものと推察する。

丁度その頃、布袋氏のギターが盗まれたと音楽雑誌の記事に掲載され、話題になっていた。

真剣な捜索願い 消えた布袋のギター

2月28日『HITS』の取材の為、厚木のミュー・スタジオにCOMPLEXを訪ねた時の事だ。布袋と吉川はヴィデオクリップ“Be My Baby”の撮影中で、息の合った様子を見せてくれていた。しかし何か変だなと思ってよくよく見ると、布袋のギターが例のペイント・ギターではないのだ。BOOWY時代からの愛用品で『GUITARHYTHM』のイメージ・アニメでは布袋の象徴して描かれていた、あのギターじゃないのである。
疑問に思い、撮影の合間を縫って布袋に尋ねると『それが盗まれちゃったんだよねえ』力無い声でつぶやいて肩を落としていた。
昨年11月15日大阪城ホールでの“GUITARHYTHM”ライブ終了後、問題のギターはメーカーのフェルナンデスにメンテナンスに出されていた。2月13日に返却された後、楽器車に積み替えられて都内某所に車ごと保管されてたワケなのだが、この撮影の為楽器車を2週間ぶりに開けると、布袋愛用のギター2本松井のベース2本紛失してるのである。
『もう5年も使ってたからね、ショックでさ。最初激怒しちゃったんだけど、とにかく戻ってきてほしいと思ってさ』(※2)

この捜索願いの記事によると、布袋氏のギターが紛失したのは1989年2月頃
それ故に森谷氏のTwitterとこのエピソードを結びつけて「盗難騒ぎのあった布袋氏のギターは氷室氏が借りていただけだった」「氷室氏と布袋氏は解散直後も付き合いが続いていた」と騒ぐBOOWYファンを何人も目にした。
しかしながら私は、この説を懐疑的に見ている。
何故なら「1989年2月頃に紛失したギター」を「Neo Fascioのミーティングが行われた頃」に氷室氏が借りていたとすると、幾つかおかしな点があるからだ。

一番おかしな点は、時期的な問題。
この前書いた「Vol.16-① ~ 解散後の交流 -①~」でも触れたが、布袋氏は「ヒムロックとは解散後ずっと会っていなかった」と語り、解散後はじめて会いに行ったのは1991年7月に行われた氷室氏のライブだと言っていた。布袋氏のギターが紛失したのは、その2年半も前だ。
確かに氷室氏のライブを観に行く前に、関係者の結婚式で会ったり、横浜中華街で偶然出くわしたというエピソードも伝わってはいる。だが、そんな場で氷室氏が布袋氏のギターを借りるとは考えにくい。ましてそのギターは、布袋氏がBOOWY時代から愛用しているメインギターとのこと。久し振りに会った人からいきなり「貸してくれ」と言われたところでホイホイ貸すようなシロモノでもない。百歩譲って貸したとしても、貸したことを忘れるなどあり得ない。

布袋氏の「ヒムロックとは解散後ずっと会っていなかった」という言葉がで、人知れず親しく付き合っていたのだということであれば、愛器を貸し借りする可能性も全くないとは言い切れないが……。
前回の記事でも書いたように、ことこの言葉に関しては嘘だとは思えないわけで。布袋氏は言っていることがコロコロ変わる人間ではあるが、基本的にそれは、その時最も自分が良く思われるよう過去を改竄して喧伝するため。むしろ氷室氏と解散後も付き合いが続いていたとする方が(少なくとも今では)遙かに大きなメリットがあるのに、そんな嘘をつく必要性がない。

そもそもこの時期の布袋氏の動きを考えると、この頃に氷室氏と付き合いがあったとは考えにくい
捜索願いの記事にあった「昨年11月15日大阪城ホールでの“GUITARHYTHM”ライブ」終了後からギターが紛失するまでの布袋氏の活動を見てみよう。

1988年12月5日 
Tokyo Bay N.K ホールで行われた山下久美子氏のライブに松井氏と共に出演
山下氏はこのライブ以降芸能活動を暫く休業
なお、この模様を報じた記事でも、同じギターかどうかは不明だが、例のペイントがされたギターを弾く布袋氏が確認できる。(※3)

1988年12月10日
COMPLEX結成を発表

1988年12月~1月
カリブ海の英国領モンセラット島に渡ってCOMPLEXのレコーディングを行う。
5週間後にはミックスのためにロンドンへ渡り、それが終了するとスペインに渡って山下氏と休暇を過ごす。(※4)(※5)

1989年2月28日
COMPLEXのMV撮影(※2)

音楽雑誌には、「2月28日のMV撮影の為楽器車を2週間ぶりに開けたところ紛失が発覚」と書かれていた。当時の芸能週刊誌にも「去年の11月15日、大阪城ホールでソロのライブを打ち上げてから布袋はギターをメンテナンスに出した。メーカーから戻ったのが2月13日で、そのまま楽器車の中へ入れといたが、2週間後に取り出そうとしたらギターがない!」とある。(※13)
つまり、2月中旬頃にはまだあったことが確認されていたのに、僅か2週間という期間の中で布袋氏と松井氏のベースが消えた

さて布袋氏だが、BOOWYは布袋氏が海外で自分の可能性を試してみたい」「デヴィッド・ボウイの横で弾けるようになりたい」と言ってメンバーに解散を切り出したことは広く知られている。(※6)
だが布袋氏は、解散後に一応イギリスで12インチシングルを発売するも、全くウケずに発売1週間で廃盤の憂き目に遭った。それにめげずにチャレンジし続けた……ということにはならず、解散から1年も経たないうちに、吉川氏とCOMPLEXを結成
吉川氏はBOOWY時代から布袋氏と親しくしており、1985年12月時点で既に布袋氏が好きなアーティストとして名前を挙げていた人物。(※7)そんな御方と布袋氏は解散後すぐにユニットを組んだ。まだ山下氏との活動であれば「妻だから」の言い訳が成り立ったかもしれないが……。
そして取材で結成の経緯を問われた布袋氏と吉川氏の御両人は、「BOOWYの解散を決めた頃にちょうど吉川氏も新たなことをやりたいと言っていたので、解散後に2人で一緒にやることを決めた」という趣旨の答えをいつも返していた。つまり、解散前から「BOOWYが解散したら一緒に組もう」と話し合っていたと彼らは言う。詳細は決まっていなかったとしても、解散前に両者の合意・内諾はあった、と。
解散前の1987年11月に発売された吉川氏と布袋氏の共作「GLAMOROUS JUMP」の歌詞は「とどかない世界へ飛び出せ 夢のつづき 2人ならつかめるさ」。これは、後のCOMPLEX結成に向けた決意表明ともとれなくはない。
さらに布袋氏は「企画バンドのつもりはない」「ツアーが終わったらまたアルバムを作りたい」「ここを基盤にふたりでやりたいことをやっていけばいい」「見切りをつけるのはもう飽きた」と語るなど、COMPLEXをずっと続けていく意思を(最初の頃は)示していた。(※12)

ギターの紛失が発覚したのは、ちょうど布袋氏がCOMPLEXとして新たな一歩を歩きだそうとCOMPLEXの活動に注力している時期。
布袋氏は「だって俺、BOOWYをやめてからは海外進出を目指すからって、ヒムロックと約束したんだから。"GUITARHYTHMⅠ"がそれだったんだけど、COMPLEXはそうじゃないからね。いわば約束を破ったんだから。」と、COMPLEXを結成したことで、氷室氏を騙して解散を承諾させたかのような形になってしまったことを(COMPLEXが破綻して氷室氏との交流が復活した一時期に漸くではあるが)認めている。(※8)

自分が悪者になりたくない、批判の矢面に立ちたくないという気持ちの強すぎる布袋氏が、氷室氏との海外進出の約束を破ってCOMPLEXを始めようとする時期に、自分から積極的に氷室氏との交流を持とうとはしないのではないか。
実際、布袋氏が氷室氏に解散後はじめて会いに行ったと語ったのは、COMPLEXが活動を休止した後だ。
(ちなみに氷室氏は「あれが布袋の本当にやりたいことなのかなと思って」「あえてバンド組んでああいう事をやる必要性っていうか、分らないよね。」と、布袋氏がBOOWYを解散させてまでCOMPLEXを結成したことについて疑問を呈していた。)

また、1989年頃には氷室氏と布袋氏との間に交流がなかったという証言もある。
1989年8月8日に発売された『ORCHESTRATION BOOWY』発売に関するエピソードにおいてである。
このアルバムは、布袋氏に近しいスタッフがずらっとクレジットされ、布袋氏もライナーノーツを書いている。その中には氷室氏作詞作曲の「CLOUDY HEART」もあった。一方で、当の氷室氏は「この頃はもうメンバーにも会ってないからわかんないんだけど、誰かディレクションしてたのかな?わからない。」と、このアルバムについて語っていたように、布袋氏のギター紛失が騒がれた時分に布袋氏と会っていなかったことと、このアルバムへの布袋氏の関わりを知らなかったことを明かしている。

つまり、当事者たる氷室氏と布袋氏の双方ともに、「この頃会っていない」と語っているのだ。

では、氷室氏が布袋氏の関係者に頼んで、人伝に布袋氏のギターを借りたのか?
こちらも非常に考えにくい
いくら「Neo Fascio」の制作期間中とはいえ、布袋氏の愛器を借りなければいけないというシチュエーションが全くもって想像できない。しかも2本も。
家にギターを持って遊びに行き、そのまま置いていったというならまだしも、布袋氏が解散後はじめて氷室邸に遊びに行ったのは1991年の松井氏の誕生日と話しているので。(※9)

それに布袋氏が氷室氏に貸し出すために持ち出したとしても、布袋氏が直接楽器車に赴くことはないだろう。当然施錠はされているだろうし、スタッフに申しつけて取りに行かせるのが自然。となれば「盗まれた!!」なんて騒ぎになるはずがない。「この前布袋さんの指示で保管している楽器車から出しました」とスタッフが説明すれば終わる話だ。

また、消えたのは布袋氏のギターだけではなく、松井氏のベースもである。
布袋氏の信者が仰ることには、「布袋氏のギターは戻ってきたが、松井氏のベースは返却されずに盗まれたまま」だそう。
もし布袋氏のギターを氷室氏が借りていただけだというなら、何故松井氏のベースも一緒に消えた?松井氏のベースも一緒に氷室氏が借りていたのか?それなら松井氏のベースのみ返却されない理由がわからない。

これらの理由から、私は「1989年2月頃に紛失したギター」を「Neo Fascioのミーティングが行われた頃」に氷室氏が借りていたという説に対して疑念を抱いている。
1991年のインタビューで「またいつかギターを持って彼(氷室氏)ん家でも遊びに行けば」と布袋氏が語っていたりもするので(※10)、もし氷室氏が布袋氏のギターを借りることがあるとすれば、1991年9月に氷室邸へ布袋氏が遊びにいった時ではないかと思う。
氷室邸から帰宅した布袋氏が「バタンキュー状態」だったとの妻の山下氏による証言もあり(※11)、ギターを持って氷室邸へ遊びに行き、かつ歓待されて泥酔し、その時の記憶が飛んでいたのであれば、「『借りるよ』と氷室氏が言ったのに布袋氏が忘れてしまっている」という状況もあり得るのではないか。

故に、私は、紛失したとされる布袋氏のギターを氷室氏が借りたことを話したのは1991年秋以降であり、「Neo Fascio」のミーティング時の話というのは森谷氏の勘違い又は記憶違いではないか?と疑っている。

もしも紛失したギターが布袋氏のシンボリックな「例のペイント・ギター」でさえなければ、BOOWY時代に布袋氏から借りてそのまま返し忘れていた可能性も考えられるが(布袋氏相手ではないが、ものを借りてそのまま借りたことを忘れていたエピソードが氷室氏には幾つかあるため)、解散後も使用していたギターということなので、その可能性はない。氷室氏が借りていたギターが「例のペイント・ギター」でなければ、あるかもしれないけれども。
ただ、森谷氏自身は、氷室氏が借りたギターがどのようなものかまでは言及されていらっしゃらないのだよなぁ……。ペイント・ギターの紛失時期と一致しているから、みんなそれだと思っているだけで。

1989年2月頃に布袋氏のギターが紛失したのはよく知られている。だが、それ以降にギター紛失事件が起こっていたかどうかは、寡聞ながら私は存じ上げない。氷室氏と布袋氏の交流が復活した一時期以降に「布袋のギターが盗まれたって、大騒ぎになった」ことがあったのなら、時期は森谷氏の勘違い・記憶違いだったと断定しても良いと思うけれども。

森谷氏はソロ初期の氷室氏のブレーンのお一人であり、氷室氏とも非常に親密な関係を築いていた人物であるため、我々ファンが知らない事情やら情報やらをお持ちであろう。
もしかしたら当時氷室氏が布袋氏のギターを拝借せざるを得ない事情か何かがあったのかもしれないし、氷室氏が借りていたギターが盗難騒ぎのあったギターとは別のギターなのかもしれないが、そうだと判断するには何分にも情報が少なすぎる。他にも楽器の保管方法(倉庫などではなくずっと楽器車に保管しておくものなの?)や盗まれた状況等々、不審な点が沢山あるし。

そのため、私としては「氷室氏が布袋氏のギターを借りていたとしても、借りたのは『Neo Fascio』の制作時期ではない」「森谷氏のツイートだけを理由に、1989年当時も2人に交流があったと判断することはできない」というのが現時点での結論。
もう少し判断材料が出てくれば、またあらためて考えたいと思う。

そうは言っても、森谷氏並みに発言に信用のおける人物からの証言が今後出てくるかどうか……。ネットで誰でも発信できる時代になったからこそ、一般の方々の「私は見た!!」「俺は聞いた!!」系の話が巷には溢れている。けれど、その話が真実かどうかを担保するものはほとんどないに等しい。だからこそある程度忖度なく事実を語ることができる関係者や当時を俯瞰的に見られる第三者的立場の方の話は、(昔の話だから多少の記憶違いがあったり、関係者だからこそ言えない話があるのは当然承知の上で)とても貴重なもの。森谷氏には是非今後とも、公式に怒られない程度で構わないので、氷室氏関連のネタを呟いていただきたい。

前回、氷室氏と布袋氏との解散後の交流について書いた時に、このことを書こうかどうか迷って、結局、論点がぼやけるので書きませんでした。
ただ、これから高橋氏や松井氏と氷室氏との交流を書こうとしているなかで、一応このことも触れておいた方がいいかな?と感じたため、蛇足として「私の思うところ」を追記させていただきました。

【出典・参考資料】

※1 2021年12月17日付森谷司牟氏Twitter
※2 Rockin’ on JAPAN 1989年5月号 P70
※3 FRIDAY 1988年12月30日号 P50
※4 ある愛の詩/山下久美子著 P130-131
※5 週刊プレイボーイ 1990年6月26日 P68
※6 記憶/松井恒松著  P101-102
※7 宝島1986年2月号 P117
※8 ROCK'N'ROLL 1991年10月号
※9 月刊カドカワ 1991年11月号 P275
※10 宝島1991年10月9日号 P154
※11 KING SWING 1992年AUTUMN №16 P14
※12 ARENA37℃ 1989年6月号 P16
※13 週刊明星 1989年5月11日・18日号 P211

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