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我についてのプロローグ

何とも難しい「我」の話
「我」とは「エゴ」のことですが、多くの方がエゴを「利己主義」「自己中心」ということだけを指して言っている人が多いような気がします。確かにエゴにはそのような意味もあるのですが、それだけを意味しているのではなく「(ラテン語で)私」「自我」「自己の意識」という意味もあるのです。そのため「我」を「利己主義」「自己中心」というような意味だけを取って考えてしまうと、理解しづらくなってしまうのではないか?と思ったりもしますので、ここでは「自己意識」という意味を以て話を進めていくと良いのかもしれないと思いました。当然のことですが、自分の意識があらゆる場面で顔を出し、それによって現実を創り上げている通り、我も個々人の日々の生活の広い範囲に渡って行動や言動、思考などに大きな影響を及ぼしています。なので、ある一部の状態だけを切り取ってみて「これが我である」とは言い切れないものだと思いますし、実際に認識出来ているかどうかはさておき、私たちが何とな~く頭で認識または理解出来そうな範囲のみならず、実は頭から離れたところ、つまり私たちが容易には見つけることが出来ないような心の深い場所から影響を及ぼしている場合もあるのです。それはもう、本能に紐付いているような部分に横たわっているものなので、とある状況になった時、私達は頭で考えるよりも先に条件反射的に何らかの反応を示していたりします。ちなみに心理学(フロイト)に沿った形で書くと、自我以外にもエスとか超自我など、より細かな説明が必要になりますし、大変なので、そのような形ではなくザックリと書いております。

道を歩いていても、人間関係でもぶつかる
「これも我、あれも我」日々の言動や行動、思考、視点などをよく観察してみるとお解りいただけるかと思うのですが、本当にあらゆる場面で我の影響を見ることが出来ると思います。まあ、それは当然といえば当然ですが・・・。例えば、人間関係が上手く行かない場合などは「我のぶつかり合い」が原因だったりしますし、街ですれ違う人々に不快感を覚える時というのも実は我が原因だったりすると思います。少し前にとある人がSNS上に「街で人とすれ違う時に大抵の場合はみんなが自分に道を譲ってくれるけれど、先日、どう見ても道を譲ってくれる気配の無い人が前から歩いて来て、その人とすれ違う直前まで自分も道を譲らずにいたのだけど、ついに相手に負けて道を譲りました。」という事が書かれていたのを見かけたのですが、これこそ我のぶつかり合いなわけです。こんな些細な事にも我が出てしまっているのですね。我が強いからこそ「譲るものか!」となるわけで、もっと言えば、この女性は自分の力を試していたり、常に自分を他者に認めさせたいという気持ちがあるのかもしれません。また、頭では自分はみんなに広く認められている人物であると思っていても、心の深い部分では「自分は認められていない」などと思い込んでいるのかもしれませんね。そして、人間関係が上手く行かない時というのは、お互いに別々の相容れない言い分があったりする事が多いようですが、この言い分というのも多くの場合は我の仕業なのです。言い分はそれぞれの人の思考の仕方、ものの捉え方など、ある種の枠に沿って出てくるものだと思うのですが、この枠は赤ちゃんの頃には全く無かったものであり、育つ中で親やきょうだい、集団生活における特定のルールの中で出来上がってしまったり、何か満たされないものが心の奥深くに残っている場合には、それとの葛藤によって出てくるものだと思うのです。我が強すぎると普通に道を歩いていても、人間関係でもぶつかりやすくなりますし、自分の枠の中でしか生きられないという状態にも陥りがちなので、是非これは手放すまで行かなくとも、緩ませるという試みを行ったほうがよろしいかもしれません。


湘南・江ノ島のサイキックヒーラーで霊能者です。 通常は目には見えないものが見えてしまう系ですが、エネルギーに超敏感なためか、その範囲や内容は広くて細かいらしいです。ちょっと理解しがたい内容なども書いてしまうかもしれませんがご容赦下さいませ。プライベートサロン JYOTI* を運営しています。その人の中に眠るポテンシャルを引き出し、最大限に独自の能力や才能や運を活かすためのヒーリングワークは大変好評を頂いております。セッションのご依頼はHPでご案内させて頂いております。
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