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江戸柳生の転生2

昭和63(1988)年7月8日、久保田先生と稲益氏の3人で東京駅中央口前、三菱地所に伺った。旧丸ビル8階が本社事務所である。ここに久保田先生が高木丈太郎社長に出した手紙のコピー(連載4で紹介)がある。念願の財界の上層部にやっと取り継ぐことが出来たわけだ。

さて、江戸柳生は徳川家康によって存続と繁栄がもたらされたものである。柳生宗厳は松永久秀方について筒井順慶に大敗し、天正5(1577)年松永久秀の自滅により失業し、15年にわたり柳生の谷で閑居、上泉伊勢守の新陰流兵法を精研しこれを極めたのである。65歳になった宗厳は髪をおろし石舟斎と名乗り隠居、翌文禄3(1594)年5月3日黒田長政の仲介により宗矩(24歳)とともに京都郊外、紫竹村の仮本陣で家康に謁見した。

この雌伏の時は、次期天下人は誰かを観察する時期でもあった。天正19(1591)年秀吉の弟羽柴秀長が没し、同年秀吉は関白を辞し12月28日秀次が関白となった。翌文禄元(1592)年秀吉は征明の軍を編成し朝鮮に出兵したが、7月8日  日本水軍は閑山島の近海で李舜臣により壊滅的な敗北を喫した。このように秀吉の力が落ち目になり、秀吉後の天下人は誰なのか見通しが出来るようになった訳だ。秀吉の敗勢が明らかとなった文禄3年に石舟斎は家康に会うのである。なお、宗矩はこの閑居の時代宗厳から上泉新陰流そして柳生新陰流兵法を仕込まれたのである。

久保田先生(左)と高木丈太郎氏(右)


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