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江戸柳生の転生3

家康は伝家の秘術「人間尊重の無刀の位」を体験し、自ら起請文を書いている。

 起 請 文
敬白 起請文の事
一、新陰流兵相傳ふるの事
一、印可なき以前、親子といえども他言可からざる事
一、其方に対し疎意あるまじき事
右この旨いつわるにおいては、日本国中の大小神祇(しんぎ)、殊に摩利志尊天、天当(お日様)の罰をこうむるべきものなり、よって起請文くだんのごとし
 文禄三年五月三日        家康(花押)
                 柳生但馬入道殿

江戸柳生も尾張柳生も幕末期まで残ったのは、この文禄三年に家康と石舟斎が出会ったからであった。
江戸柳生は一万石の大名として、尾張柳生は五百石ながら師範としての身分保障があったからである。明治以降、尾張柳生は大変な受難時代を向かえた。道統を維持するためには時の権力者の庇護を得られるようにしなければならない。

7月8日に高木さんと会う、という話のきっかけは4月ごろから始まっていた。今年は、文禄3(1594)年から394年目である。この後、高木さんが新陰流兵法を始めることになれば、まさに歴史は繰返すことになるが?(残念なことに、同年12月21日未明鶴山先生は急逝されたのでした。)

昭和63年9月27日 久保田先生(左)と高木丈太郎氏(右)の稽古風景

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